以前の記事のゲームの時に、ゲームをやり始める年齢などについて書かれていると教えてもらい、読み始めた本です。

 

ゲームに関しては、親の学歴でゲーム時間ゼロの割合が異なるそうです。

両親大卒のほうがゲームをやらせていない家庭が多く、両親が非大卒のほうがゲームをやらせているという結果だそうです。

それでも、5歳半になると両親大卒でも男児46%女児38%、両親非大卒だと男児62%、女児48%ゲームをしているそうなので地域やグループによっては多くの子が持っているとなってもおかしくないですね。逆に言えばまだ持っていないグループも存在しそうですね。以前、一時帰国で幼稚園の体験に行った際は、ゲームをしているという話は聞きませんでした。

 

 

 

この本は主に、両親大卒者、片親大卒者、両親非大卒者の子供の学力を様々なデータを用いて比較しています。

大卒の両親を持つ子は小さい頃から教育的介入を受けて育ち学力上層にいる、教育的介入を受けづらい非大卒の両親を持つ子とは学力に差が生まれるという話です。

結局、子供の学歴はは両親の学歴による意識の差、教育的介入、習い事や地域の環境などが影響するという、

まぁ、そうだと思うよ、という一般的な見解をデータを用いて説明しているということだと解釈しました。

ただ、その差は小さい頃から大きくなるあらゆる項目での意識の違いからきています。その意識の差は相当えぐいなと思います。

 

アメリカ社会を見ていると裕福な白人層と貧困にあえぐ黒人層では、持っているお金の差で起こる格差以外に、家庭環境、地域の環境など途方もない格差があるのだろうと見て取れるのですが、

その差は日本でも確実にあるという事になります。

 

 

また、学力は幼少期から一貫して相関性があり、小学校入学時点で読み書き能力が高いと、その後の学力も高いというデータが出ています。このデータは親の学歴はわからないのですが、逆転は早々せずに、小さい頃から優秀な子は優秀という事でしょうか。

というか、優秀になれる家庭環境なら優秀になるという事なのでしょうか?

どちらにせよ、幼児期に学ぶことは沢山あり、その時点で差がついていると考えられます。

 

この本を前から読みたかったのは、学力の逆転ってありうるのか?と思っていたからです。

 

現地校に通う生徒は、渡米した時点で英語力が低いわけです。そのスタート地点がマイナスから始まり空白の期間があるにも関わらず、

それ相応の期間(3-11年渡米年齢による)がすぎると追いつくというのにかなり疑問に思うわけです。なぜ追いつくのだろうか?どうやって追いつくのかと。

日本でも一度、落ちこぼれると追いつくのは苦労するし、そのままの人もたくさんいますよね。

追いつくといっても、平均値に追いつくという話なので、日本にいたら本当だったら上位層に食い込むところだったのをアメリカの平均値ととらえることもできるかもしれません。二極化のアメリカの平均値と考えると、なかなか厳しい気もします。いづれにしても普通に過ごしていたら追いつくことは難しいのだろうと予想できます。

 

また、私は幼児期に海外にいたことで日本の教育に大きく出遅れてたのではないかと考えています。

私が海外にいたとき、我が家はそこまで教育熱心ではなく、公文を取り寄せてはいたものの

ほとんど手を付けづに終わり、特に絵本の読み聞かせも熱心にされた覚えもなく、

日本人の少ないエリアだったため、日本語へのアクセスも少なかったです。

付け加えると英語もそこまで積極的ではありませんでした。

姉がどうだったかはわかりませんが、未就学児だった私は特に何も施されることもなかったと思います。(家庭的にも我が家、特に私に教育を施した母は、祖母の監視のもとガリ勉してそこそこの大学という出なのでノウハウ的にも中層にあたると思います。)

それによる日本語の遅れが苦労した一番の要因だったのでは?と考えています。

その遅れが追い付くというのはどういうことなのかという事に興味があります。

 

やはり、いろいろ考えると、日本文化に馴染むという点では、小学校低学年時点では1,2年で馴染む事ができ、ある程度年数が経つと帰国子女の面影はなくなります。

なので幼少期の海外生活は確かに問題ないのかもしれません。

一番長引くのは学力ではないかと思います。

その学力が、私の持っている能力の差なのか環境の差なのかがずっと気になっていることなのです。

(環境の差ならば子の教育の指針になるからね。自分の人生を後悔するために知りたいわけではありません)

同じような帰国子女の中でも、優秀な人もいるし、英語は手を抜けたから他の勉強ができたという人もいます。英語が楽だったという人もいます。その差って何だろう?というのが気になるところです。

 

遺伝的に持っている能力の差でしょう?

 

と言われればそれまでなのですが、

だったら、もう遺伝ですべてが決まるのか?

 

もちろん遺伝による能力差という事はあると思いますが、

環境による差というのもかなり大きいとこの本を読んで思いました。

 

何よりも、小学校入学時点ですでに学力差があること、その差は高校まで一貫して大きく縮小も拡大もしない事から見ると、幼児期の教育というのはやはり重要であるという事になります。

この幼児教育を何ととらえるかという事になりますが、今まで読んだ本から考えると私は語彙教育ではないかと思います。

どれだけ語彙を知っているかとなると早期英語教育(現地幼稚園)は単純に時間的に不利だと考えます。

そして、帰国後に覚えた英語を忘れてしまうので、バイリンガル環境を長期間確保できない駐在組にとっては尚更不利だと思います。

(やっぱり低学年の場合、維持するのは至難の業。というか時間の無駄では?と感じます)

 

私の場合、幼児期の海外生活における遅れはいわゆるスタートダッシュに遅れたわけですが、

両親大卒の私からすると、環境という点では恵まれているため努力次第ではやはりそれなりに挽回可能であると感じます。

事実、それなりに挽回していると思います。

(だからといって、駐在がなければ今より良い学歴だったかと言われるとどうだろうと思いますがもっと平穏な人生だったのでは?と思います。)

 

ただし、大きくなるにつれ学校や友人関係による影響力が大きくなるので、

遅れたらできるだけ早いうちに挽回すべく努力する必要がありそうです。

なので、やはり、中学受験をしたという点では、そこそこ早期挽回できたことが私には大きかったと思います。中学受験が一般的だった小学校の環境によるところも大きいと思います。たった3年ですし。

(多分、帰国してすぐにそれなりにサポートされていればもっと楽だったかもしれないと思います。)

 

英語習得という点からみても日本語力が高い方が効率よく習得でき、日本語で読み書きが出来ると英語での読み書きがすんなり行く、英語で読み書き出来ると帰国後も英語を忘れ辛い、となると英語が生きる。

英語環境になる時期の日本語力というのが大きな鍵だと思います。

 

 

幼稚園で英語を覚えても読み書きが出来ていなければ、その後の維持は難しいと言われています。そうなって、英語を忘れてしまったら、過ごしてきた日々はなんだったのか?帰国したらただの日本語力の低い子にならないだろうか?

 

 

それでも耳と発音が残るじゃないか、他にもメリットがあるじゃないかと思えるなら良いですが、耳と発音だけ残ってもねぇ。全然役に立たないけどねというのは一個人の感想です。

その他、メンタル的負担やコミュニケーションの機会の損失、そして自力で環境に慣れていく力を考えると幼児と低学年の現地校にそこまで大きなメリットは感じられません。

 

 

楽しんで通えているならいいですが、日本語幼稚園があるにも関わらず、現地校で無理している子がいるならば、そこまで英語に固執しなくてもいいのになぁなんて思うのです。