【 エピソード 「jey」 その3】この残酷なる世界に生を受けて
「お願いします・・・この子を助けてください。お願いです・・・お願いです。」
母さんだ・・・母さんがヒューマンの足元にひれ伏すようにして、小さく鳴いた。
それは樹の梢に結わえ付けられた小さな鈴が風に揺れているような、可愛らしく、艶っぽく、そして悲しい音色だった。
ヒューマンの足が下ろされた。おれは力尽きてぽとりとその足元に転がった。
アドレナリンで強制的に覚醒され、その身体もなじまぬうちに身を焦がす激しい怒り、そして絶望を経験した俺の心と身体はズタボロで、とにかく身体が眠りを求めて、陸に打ち上げられた魚が酸素を求めて口をパクパクさせるように、休息を求めた。
たとえそこが固い床の上だろうと、剣山の上だろうと、今はとにかく眠りたい。
その誘惑に打ち勝つことが出来ず、俺の瞼はぴったりと合わさった。意識が深い井戸のそこに沈んでゆく。深く、深く、いつ覚めるとも知れない深い眠りに・・・俺はついた。
夢
全ては夢。そう全ては夢。
ちゅんちゅん・・・ちちちっ・・・・ちゅるっ・・・ちちち・・・
耳元で何か小さな生き物が鳴いている。
ちゅんちゅん・・・ちちちっ・・・・ちゅるっ・・・ちちち・・・
俺はまだ眠っていたいんだ。じゃまするな。
ちゅんちゅん・・・ちちちっ・・・・ちゅるっ・・・ちちち・・・
ふう・・わかったよ。起きるよ。起きるってばさ。
花の蕾がゆっくりと開くように俺は瞼を開いた。
俺が目を覚ましたのは大きなサラッとした肌の石の上だった。
太陽の光が柔らかく差していて、石肌は快適にひんやりしている。俺の一番寝心地のよい体制に合わせた様なフィットする浅い窪みがある。石は大地にしっかりと根を据えていて、石を取り囲むように色とりどりの花が咲き乱れ、清々しい香りを発散させていた。
時々肌をなでてゆくのは沢を渡る爽やかな風。木々のそよぎ音。
石を中心に花が咲き乱れ、それを取り囲むように立派な樹木がそびえていた。
樹木のサークルの中心で円形の空を仰ぎ見れば、薄青色の澄んだ空。
綿飴のような白くふわふわした雲がゆっくりと流れている。
「おはよう」
俺はそれが長い間繰り返されてきた、ごくごく普通の習慣であるかのごとく挨拶した。
それは空気、花、小鳥、木々、光、そして自分自身に対して発せられた言葉だった。
ずいぶん長い間眠っていたように思われるが、身体のきしみ、こりなどは全く見られない。
あくびも出なければ、伸びをする必要も無い。
快適な環境とゆったりとした心。しかし特別に恵まれた環境だとは感じなかった。
ごくごく当たり前の状態。それを何年、何十年と繰り返えして来たのだ。
俺はその快適な石の上から降りて散歩しようと思った。
すると身体は羽根のように軽くなり、咲き乱れた花を踏み潰す心配はまるでなくなった。
樹木に近づくと、食欲をそそる良い匂いがした。
ふと見上げると赤や黄色のおいしそうな果実がそこかしこに実をつけていた。
足元を注意してみると樹から流れ出た樹液が浅い流れを作っていて、鼻を近づけると懐かしい匂いがした。恐る恐るその流れに舌を差し込むと、なんとも形容し難いほんのり甘い味覚が体中を駆け巡り、身震いするほどだった。
木々の間を抜けさらに進んだ。
森の先にあったのは3mくらいの緩やかな川の流れ。
その清楚な流れからは、想像できないくらいの生命の息吹が感じられ、事実、川底をそっとのぞいてみると色とりどりの鱒達がゆっくりと尾びれを揺らしていた。
その川のすばらしいのはそれだけではない、川を構成している石が全て水晶で出来ているのだ。
水晶の透明度は様々だが、その透明度が高い場所では、まるで川が空中を流れているような錯覚を起こした。
鱒達をびっくりさせないようにそっと、その清らかな流れの中に身体を浸した。
水晶の川は川底が透けていてまるで空中遊泳をしているように壮大な気分になった。
ここでは水は怖くない。この川の水は呼吸を止める物質となならなかった。肺にその水が入っても肺胞はなんら抵抗せずあっさりとその成分から、細胞を活性させるだけの酸素を吸収した。
俺は身体を流れに任せそのままゆっくりと流れていった。快適な住処から離れてしまうことになんら不安はなかった。それは、この流れの先に広がるのはどこまで行っても楽園であると確信していたからだ。
どれくらいそうしていた事だろう?
ちゅんちゅん・・・ちちちっ・・・・ちゅるっ・・・ちちち・・・
ちゅんちゅん・・・ちちちっ・・・・ちゅるっ・・・ちちち・・・
聞き覚えのある小鳥の鳴き声?おれはまた眠ってしまったのか?
目を覚ますと俺はいつしか岸に打ち上げられていた。
回りの景色を見回し、俺は目を疑ったっ!
楽園が消えているっ!
川はごつごつした漆黒の火山岩にかわり、地面のところどころから噴出した火山ガスが木々を枯らし、小鳥を殲滅した。川はタールのようにどろりと濁り、ヘドロの塊が転がるように下流に向かって行く。
川の向こうではヒューマンですら生きてはいられない様だ。そこかしこに巨大なむくろが横たわっている。
だれが楽園を地獄に変えたっ?なぜ?いつから?
俺を目覚めさせた小鳥が俺の足元で力尽きていた・・・・
こんな世界なら見えないほうがいいっ!
小鳥よ。なぜ俺を目覚めさせた。
小鳥よ。なぜ俺を目覚めさせた。
ころろ・・・ころろん・・・ころろ・・・ころろん・・・
聞き覚えのある懐かしい鈴の音。母さん?
母さんなぜなの?
ころろ・・・ころろん・・・ころろ・・・ころろん・・・
ころろ・・・ころろん・・・ころろ・・・
ころろ・・・ころろん・・・
ころろ・・・
・・・
夢
全ては夢。そう全ては夢。
おれは目を覚ました。
朱に染まった母さんの白い毛並み。おびえる兄弟。
スノウ・・・姉さん。全ては夢なんだね。
現実は今ここに俺が一人でいるということ。
業務用グリーンピースの缶が1ダース入っていたダンボールの粗末な塒。
糞尿にまみれた荒タオルの床。腐敗してハエが群れている缶詰めの餌。
そう、おれはどことも知れない道路わきの草むらに捨てられた。
ヒューマンが俺のことを嫌いだったってことは知ってたさ。
ゆきのように白い毛並みを持つからスノウ。
シマウマのように美しい模様でゼブラ。
銀色っぽいグレーにブルーの瞳、異国の猫種シャムみたいだからシャム
みんな美しい特徴を持っていた。でも一番美しいのは母さんかな?
おれの模様は・・・・・白地に黒と灰色で足首から肩口まで巻きついた斑蛇の模様。肩口でその蛇は口を広げ俺の頭を齧ろうとしているみたい。
こんなフキツな模様を持って生まれちゃったんだから嫌われても仕方ないか・・・
雨が降って来た・・・この雨でこの心もとないシェルターもふやけて潰れてしまうだろう。
だけど俺はここに残るつもりだよ。
ここを離れてしまったら、だれが俺のことを見つけてくれるの?
俺と母さんと兄弟達を結びつけるのはここしかないのだから・・・ねえそうでしょう?
雨が俺の身体を濡らし、体温と命を少しづつ奪ってゆく。雨は嫌いだな。
俺は雨に濡れる身体を気にするわけでもなく、汚れてブショブショになったタオルの上に身体を横たえた。寒さも感じなくなった。
また楽園の夢を見れるかな?
そこには母さんやスノウ、ゼブラ、シャム・・・みんな居るといいな。
そして神様。次に目覚めたとき、もしそこが地獄だったら、どうか俺を起こさないでください。
【エピソード 「jey」 その2】この残酷なる世界に生を受けて
その日は突然やってきた。
俺はスノウに譲ってもらった一番上の特等席で、とろとろとまどろみながらなんと無しにミルクを飲んでいた。スノウは母さんの尻尾で狩りの練習をしていた。
突然大きな手が俺の首筋をムンズとつかむとひょいと身体を暖かい巣箱から持ち上げた。
「!」
俺は何が起こったのかと寝起きで焦点の定まらない目を必死に瞬き、状況を把握しようとした。
首筋をつかまれ宙に持ち上げられた状態で、母さんが見えた、スノウが見えた。ゼブラとシャムは無邪気に格闘ごっこで遊んでいた。
母さんとスノウはその動きを止め、悲鳴を上げる俺を見上げていた。
俺はその突然の呪縛を解こうと必死に暴れた!
爪を出し首の後ろを捕まえている大きな呪縛を断ち切ろうと、小魚の骨ほどの貧弱な武器を振り回した。
口の端から飲みかけのミルクが一しずく床に落下していった。
振り回した爪の一撃が何か硬いものを深くえぐったっ!
突然呪縛が解かれた。
俺は身体を反転させ何とか着地の衝撃を和らげようとした。
身体が半回転すると、呪縛の元が何だったのか、理解した。
ヒューマン。
何をしゃべっているのかよくわからない、大きな生き物。
ヒューマンは手を押さえ顔をしかめていた。指先からわずかに出血しているらしい。
俺の爪は根元からバッキリと折れていた。
身体がもう半回転していれば着地の衝撃は和らいでいたはずだ。
しかし、悲しいかな・・・俺は背中から硬い床に激突し呼吸が出来なくなった。
肺の機能が一時的に麻痺したらしい。
「ぼうやっ!」母さんが叫んだ。スノウがゼブラがシャムが・・・駆け寄ってきた。
でも一番先に俺を抱きしめたのは母さんだった。
ヒューマンが近づいてくる。酸欠状態になった細胞が麻痺した肺胞に「動けっ!」と激を飛ばす!
(動けっ!動けっ!動けっ!)
ヒューマンの足音がズシンズシンと頭に響いた。
ヒューマンは丸太のような腕をヌボーっとのばし再び俺を捕まえようとしている。
しかし、肺は動く気配すらない。もう・・・目を開けていることすら・・・重労働だ・・・
光が・・・・消えてゆく・・・
「ぼうやっ!目を開けるのっ!しっかりしなさいっ!男の子でしょっ!」
そう叫ぶと母さんが俺の前に立ちはだかった!ヒューマンの捕獲から俺を守るつもりだ。
ヒューマンは躊躇せず母さんを分厚い手のひらでなぎ払った。俺たちを生んで体力が落ちていた母さんは踏ん張りが利かずあっさりとひっくり返り、床を滑って行った。勢いで樹を加工して作ったタンスと呼ばれるヒューマンの皮を仕舞う大きな入れ物に激突した。
「ぼうやっ!お願いだから目をあけてっ!」
タンス(?)の角に固い頭頂部がぶつかったため、母さんの白く美しい毛並みは朱に染まっていた、それでも俺の呼吸が止まるのを阻止しようと、ふらつく足取りでヒューマンに向かっていった。
母さんの歩いた後に血のしみが点々と滴って、ルビーのように輝いた。
血は嫌いだ・・・血は誰かが落とした命の欠片・・・かなしい・・・そして、こわい・・。
血に対する恐怖が、アドレナリンを噴出させ、痙攣する肺胞に活を入れた。止まりかけた心臓に動けと命じた。俺は目を見開いたっ!しっかりと!
「ぼうや・・・そう・・・逃げるのよ」
(にげる?)俺は四股立ちするとヒューマンを見据え、眉間にしわを寄せ、唸った。
「逃げなさいっ!ぼうや!ヒューマンには敵わないのっ!」
(ヒューマンにはかなわない?)相変わらず視点は定まらなかったが、ヒューマンの足首に何とか狙いをつけて、爪を出した四股でがっちりとホールドした。そして獲物を動けなくした状態で足の爪を使い皮膚を切り裂く。無意識のうちに繰り出された必殺技!
しかし、俺の爪はまだ柔らかく、そして脚力は未熟だ。軽い身体はヒューマンの脚力であっさりと10mは投げられる。10m先で待っているのは砕けた頭蓋と折れて皮膚を破った足骨、そして暗闇。
ヒューマンにはかなわない・・・
絶望が俺を支配した。ヒューマンにはかなわない・・・そう、かなわないんだ。
ヒューマンの足がゆっくりと持ち上がった。光速の振り子で俺の身体は投げられ、死のイメージが現実のものとなるのだ。
カウントダウン10.9.8・・・さよならみんな・・・7.6.5・・・さよなら母さん・・・4.3.2・・・さよなら残酷な世界・・・あばよ・・・・1
【エピソード 「jey」 その1】この残酷なる世界に生を受けて
雨が降ってきた。
雨が降るといつも不思議な気持ちになる。
雨は嫌いだ・・・そりゃあ体が濡れる事が好きな猫はいない。
でも、俺が雨を嫌うのはわけがある。
なんだか暗くて、でも暖かくて・・・せっかく居心地が良かったのに・・・
ある日突然その安住の地から俺は外の世界に産み落とされた。
何も見えず、体も思うように動かない。なんとなく寒く、何時も腹が減って・・・
俺は這いずり回ってもとの場所に戻ろうと、そう、じたばたもがき、泣き叫び・・・
時々大きくやさしい舌が俺の身体をやさしく舐め回した。(母さん・・・)
不思議な安堵感。漠然と愛されているという充足感。
俺のじたばたはいつしか収まり、その暖かい抱擁に身を委ね、この世に生を受けたことに感謝するようになった。
足もようやく脚力がつき始め、踏ん張りながらでもなんとか腹を床に摺らずにヨチヨチと歩けることは出来た。塞がっていた目が開き、生れ落ちた世界の、その光に満ちあふれた世界に初めて触れたとき、俺の隣には3人の兄弟がいた。
真っ白な毛並みの「スノウ」。
白地にトラ模様の「ゼブラ」。
グレーの毛並みにエキゾチックなブルーの瞳「シャム」。
おれは3人の兄弟と巣箱の中でじゃれあってよく遊んだ。
寒さに凍える心配も、飢える怖さも、何もなく、ただ生きていることがうれしく、その気持ちを無意識のうちに体で表現した。体が自由に動くこと、景色を楽しむこと、自然の音を聞けること、全てが当たり前で、でもがむしゃらにうれしかった。・・・幸せだった・・・
俺たちのそばには何時も母さんがいて、目を細めやさしい微笑をたたえ俺たちを見ていた。
母さんはやせた白い猫で兄弟の「スノウ」にその血は受け継がれた。
はしゃぎすぎておなかが減ると俺らは母さんに走り寄り、その痩せた身体からミルクを飲んだ。
右の上がスノウ、左はゼブラ、シャムは真ん中の二つを交互に占用した。生まれた順番で俺が一番下を宛がわれた、がスノウが時々一番上を譲ってくれた。
一番上は特等席!
それは母さんの柔らかい舌で優しい愛撫をずっと受けることが出来るから。
俺は夢心地で、食事をしながら眠り込んでしまうこともしばしばだった。
・・・幸せだった・・・
ヒューマンが兄弟たちの名前をよく呼んでいた。だから兄弟の名前はよく知っている。
スノウ、ゼブラ、シャム
でも、俺は自分の名前を知らない。
俺の名前が呼ばれることはなかった・・・WHY?
ヒューマンは俺に名前をつけてくれなかった・・・WHY?
