いつもと同じ日だった。
地震がくる前までは。
あの日は職場の事務所の廊下にいたが、
立っていられない程の揺れに
為す術もなくへたりこんでしまった。
座っても身体が揺さぶられる程の揺れ。
廊下の蛍光灯が外れて落下し、天井の
板もあちこち落下してきたので
着ていたジャンパーを脱いで頭部を
守った。
長い揺れ。
こんなに強い揺れなのに、一向に
弱まらない。
事務所の建物が崩壊するかもしれない。
そうなったら自分は無事で済まない
だろうと思った。
止まらない揺れに
「なんで止まんないの!?」
と、繰り返し言った。
5分近く揺れた地震が止まった時、
あたりは薄暗く火災報知器のベルが
けたたましく鳴り響き、停電とホコリで
薄暗くなっていた。
建物から脱出し、敷地内の駐車場に
職員全員が集まった頃、季節外れの
雪が降り、一時間ほど吹雪になった。
地震のショックなのか私はボンヤリして
次に取るべき行動がわからなかった。
その後も震度4クラスの余震が次々と
起こった。
携帯電話はどんどん繋がらなくなって
いき、停電のためテレビやラジオから
情報収集が出来なかった。
車のテレビで仙台空港の津波の映像を
見せられた時、浸水程度にしか思って
いなかった。まさか、数メートルの波が
押し寄せたとは小さな画面からは
わからなかった。
安全確認の点呼終了後、職場から解散と
なったが、道路は全て大渋滞。
停電で信号が止まり、人々は慎重に
譲り・譲られながら車は走った。
帰宅途中に事故など無かった。
“事故なんて起こしてる場合じゃ無い”
という思いは共通だっただろう。
街頭も、看板も、信号も消えて、車の
ヘッドライトだけが明るい屋外。
通常は20分程で帰宅出来るのに2時間
近くかかって帰宅。
停電で家の中の様子はわからなかったが
落下物や破損物や、強い余震があるので
室内は危険と判断し、飲み物と防寒具を
持ち出し、自宅近くの家電量販店の
平面駐車場へ車で移動し、夜をあかした。
その夜は星がすごく綺麗だった。
雲ひとつ無い夜空に明るく光る星々。
綺麗すぎて不安になった。
車のラジオから流れるニュースは
10メートルを越える津波の規模や
浜に流れ着いた200~300人の遺体の
発見など信じられない事ばかり。
何かの間違いだと思いながら、
明日からどうすればいいのかも
わからず、ただニュースを聞いていた。
そして、翌日から電気、水道、下水で
苦労するとは思い付きもせず
(我が家はプロパンガスだったので
タンクの残量分は使えた)余震が
くるたびにビクビクしながら
眠れない夜を過ごした。
夜が明けてから自宅に戻ったら
駐車場が地割れしていた。
室内は食器類が落下して割れていたが
思ったより大きな被害はなかった。
大きな破片は拾えたが、掃除機が
使えないので細かい破片は取れなかった。
暖房が使えない室内で防寒着を着たまま
横になり、昨夜眠れなかったので
寝ようとしたが余震で起きるので
ろくに眠れない。
揺れると家が軋む音が聞こえるので
室内にいる方が地震を怖く感じた。
夕方頃、室内が寒くて我慢出来なくなり
車の暖房で暖まるため移動しようと
した時、電気がついた。
(地域によって異なるが電気や水道は
約2~3週間かかり、都市ガスは
1ヶ月以上かかった所もあった)
電気がついて、真っ先にテレビをつけた。
そして生まれて初めて見た津波の
映像と被害に目が釘付けになった。
信じられない被害。
見たこともない映像。
どうしていいかわからない不安。
そこから日常を取り戻すまで、
不自由な生活が始まるのだが
その時は何もわからなかった。
その日から学んでいった。
あれから3年。
薄れていっても決して忘れない、あの日。
忘れないで欲しい、あの日。