先週、数ヶ月前から予約待ちだった本、

”世界から猫が消えたなら”/川村元気を読んだ。


単にタイトルの”猫”が引っかかったのと、カバーの猫の写真が可愛くて、、

それだけで選んだ本だった。


他の読書家もおそらくそうなのだろう、

そして 本っておそらくそういうものなのだろうが、


私のように読書数が少ない中でその時の自分の状況や必要としている事に

共時性がありすぎて、いつもいつも不思議だなあと感心してしまう。


こうやって昨年からの予約でどうでもいいと忘れかけていたものが

まさに今のタイミングで飛び込んでくる不思議さ。


私は産まれてから現在の今までで、推定180冊位しか本を読んでいない。

どうしてわかるかと言うと、

2005年からブクログ(バーチャル本棚)へ読んだ本を記録しているが

まだ151冊だ。(但し、2-3年くらいアップを忘れていてすべてではない)

それ以前は、本当に本を読まない人で、大目に見てもおそらく30冊いかない、

指折り数えられるくらい、おそらく25冊位かなあーみたいな感じ。

これっておそらく一般的な読書家にとっては少ないんだろうなと思う。

でも本当にその時その時の私を助けてくれている。

密度が濃いように思えるのだ。


”世界から猫が消えたなら”/川村元気


川村元気って全然しらなかったが、本を手にとって初めて

”電車男”でブレークした人って知った。

1979年生まれ、約10年前の元カレより一つ年下か、などと思う。

うー、やはりこの世代ってただならぬものを感じる。


がんを宣告された主人公の前に妙に陽気な悪魔が現れ、

世界から何かを一つ消すことで寿命が一日伸ばせるという、

取引をすることになる。


自分の命と引き換えに、世界から電話、次に映画、時計、そして猫へと続く。。


初め(電話)は、”なんて簡単な取引なんだ”、と主人公は思う。

”だいたいこの世の中はくだらないものとガラクタに満ち溢れている、

あらゆるものはその”あってもなくてもよい”ぎりぎりの境にあるxx

ひょっとしたら人間ですらそうかもしれない”、と。


ところが次第に消していくことで改めて見えてくるもの、

世界から何かを奪うことによって色々なことに気づかされてゆく。

そのひとつ一つを消してみる、という発想と、

消してゆく過程での気づきの視点がとても深く面白い。


”僕の人生もそうかもしれない。一本の映画には、

ありとあらゆる滑稽で悲劇で喜劇な僕の人生が映し出されている。

でもそれを一本の写真におさめるならば、

そこに残るのは真っ白なスクリーンなのだ。

いろいろな喜怒哀楽を通り抜け僕の人生は真っ白な映画として記録される”


”僕はまだ死にたくない。 まだ生きていたい。

そして明日又僕は、この世界から何かを消すのだ、

自分の命のために、自分の未来から何かを奪って”


”xxその愛という、人間独特の面倒で邪魔で、でも絶対的に

人間を支えているそれは、時間とよく似ている。

時間、色、温度、孤独、そして愛。

人間の世界にしか存在しないものたち。

人間を規制しながらも、人間を自由にするものたち。

そのものたちこそが僕らを人間たらしめている ”


”世界から猫が消えたなら。xxxでも今は分かる。

世界に何かが存在する理由はあっても、失われる理由なんて、

もう全くないんだということを”



”xxxその後悔こそが美しいと思える。

それこそが僕が生きてきた証だからだ。

僕がこの世界から何かを消すことはもうない。

自分らしく生きるはずが、生きられなかった人生。

ついぞ自分らしさを見つけることが出来なかった人生。

無数の失敗や後悔、かなえられなかった夢、会いたかった人、

食べたかったものや行きたかった場所xxx”


(↑強いて言うなら著者は”後悔”って言葉を使っているけど、

”後悔”じゃなく”未練”ではないかなと思った)


”自分が存在した世界と、存在しなかった世界。

そこにあるであろう、微細な差異。

そこに生まれた小さな小さな”差”こそが僕が生きてきた”印”なのだ”


このところずっと卑屈になっていた私は、この本と、先週の先生に、

やられた、って感じです。