私は20年以上前から色んなことを学んで来ました。
看護師をしながら、哲学、心理学、東洋医学、ヨガ、アロマ、ヒ―リング、食事療法、コ―チング、統合医学、数秘術、スピリチュアル、脳化学、成功哲学等々、現代の人間の癒しにに関わることをずっと模索してきました。
しかし、ここ数年はそれら全て捨てています。年々、もう要らないという思いが強まっています。
どんどん削ぎ落とされています。
上記の学んだことはほとんどが人間型ゲシュタルトの時代に作られたもので、やはりエゴか強いのですね。
削ぎ落とされてきたら、自分が人を救えるんだ、という妄想がなくなっていきます。
他人なんか本当はいないのにね。
全ては自分だと。それがわかれば、人のために何かを一生懸命に学ぶことは減っていきます。全ては自分のために学んでいます。
人間である自分を楽しむことと、魂である自分を俯瞰して見るようになります。
それでも、私は人間として楽しむ自分にとても罪悪感を感じることがあります。
これは奥行きとして刻まれた私の経験に起因するのかもしれませんが、正常な人間なら、罪悪感をかんじるのは当たり前かもしれません。
でも、人間型ゲシュタルトと、変換人ゲシュタルトの違いを知って生きるのと、知らないで生きるのでは雲泥の差があると思っているのです。
感覚の敏感な人は、人間として生きていくために様々な工夫をこらしたり、一生懸命勉強をしています。
最初は生き辛さを克服したくて、私のようにたくさん勉強するでしょう。
でも、いくら勉強してもしてもわからない、何かしっくりこない。
何故ならば、これら「勉強」は調整期に作られたものであり、本物がいないからなんです。
今、覚醒期に入り、徐々にほんものが出てくるでしょうが、それは今までの人間的なセンセ―ナショナルなものではありません。
物陰に潜み、引きこもり、または冴えない隣のおっちゃんが覚醒者であったりするのです。
調整期に活躍するのは目立つ人で、おしゃべりや人を説得するのが上手です。
そして、私が一番嫌いなのが、金儲けの話です。
自分が、自分だけが、など言っている人は人間型ゲシュタルトバリバリなんですよ。そういう人の中には人にも同じことを強要する人がいます。
覚醒期に入って行く変換人は、人に強要しませんし、する必要がないことを悟っています。
だから、生活は実にシンプルですが、人と比べる必要がないので幸せです。
う―ん、もっと具体的な話がしたいですね。
今日は抽象的でなかなか理解出来る人は少ないと思いますが、また少しずつ小出しにしていきますね!
生きる術なんか本当は必要ないことに皆が少しずつ気付いていけたらいいなあ。