ラームのFACEBOOKにエンケの写真が。
エンケが自ら命を絶った日はラームの誕生日の前日だったわけで。
どんな気持ちでそのニュースを聞いたのか。。。
彼も思うところいろいろあるのでしょう。
去年出版された友人の記者RENGによるエンケの自伝。
ほんのさわりですが紹介します。
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2009年11月10日の火曜日。家政婦が9時に家にやってきた時、彼は「やあ、エラ!」とキッチンから呼びかけた。2人目の娘で10ヶ月になったライラがいた。額にキスをしてテレサと別れた。キッチンのマグネット板にはフェルトペンでやらなければいけないことがすべて書き出してあった。対バイエルン戦のチケット4枚。そして彼は出かけた。日に2回、午前にフィットネストレーナーと、午後にハノーファー96のキーパートレーナーとのトレーニングがあるから18時ごろにはいつも通り戻ってくる。そう彼はテレサに言った。
しかしこの火曜、トレーニングの約束はなされていなかった。
私(RONALD RENG)は12時半過ぎに車にいる彼の携帯につながった。彼へ2つの確認事項があった。知人であるイギリス人のジャーナリストが彼へのインタビューを希望していた。ドイツオリンピック図書館が1月の会合で彼をゲストとして迎えたいとも希望していた。なんてこった。今や僕はもう君に仕事内容を知らせる秘書だよと冗談でも飛ばすつもりでいた。だが彼は手短かに電話に出ただけだった。無理もない。二つのトレーニングの合間に車に乗っているところなのだからと私は思った。いつものようにエスパーダかハイムウェーで昼食をとる予定だろう。「また今晩にでも電話するから、ロニー。それでいいかい?」と彼は言った。それ以上のこと、彼がどんなふうに別れを告げたのかも私は覚えていない。
その晩は彼以外の人たちからたくさんの電話が私の元にあった。
初秋の晩に起きた彼の自殺で多くの人が一体となった。彼の周囲の人間、彼の名前を聞いたこともない者も含めてあらゆる人間が。その後数日の共感はほとんど集団ヒステリーにも近いものだった。
ロンドンではTHE TIMESがロベルト・エンケについて一面の半分を割いた。中国では国営放送が主要ニュースとして伝え、ニュースエージェントは告別式の参加人数を記録のように発表した。(「これほどの人数が告別式に参加したのはドイツの首相コンラート・アデナウアーの時以来のことだ」)、このような広がりは今日では全てが、人の死でさえもイベントになってしまうということの表れとして説明するほかない。しかしもっとも内側に本当の痛みが、深い無気力が残っていた。ロベルト・エンケの死は私たちの多くにいかに自分たちがこのうつという病について無知であったかを知らしめた。またうつについての話がほとんどできないということも突然知ることになった。誰もがロベルト・エンケ自身と同じく彼らや家族の病気を隠しておかなければならないと思い込んでいたのだった。
うつについての事実は定期的に新聞に載っている。毎年うつによる自殺で死ぬ人間は自動車事故で死ぬ数よりも多い。多くの人にとってそういった悲劇は耐え難いものだろうという一般的な想像以上のものを数字は与えない。そしてマリリン・モンローやアーネスト・ヘミングウェーのような有名人が自殺したためにうつが大きく扱われるとそれをたとえ正面きっては言わなくてもあるロジックがなんとなくまかり通るようになる。アーティストにそれはつきものだと。なぜならメランコリーという暗い部分は芸術とは切り離せないものだから。
しかしロベルト・エンケはドイツの正ゴールキーパーだった。ゴールキーパーは最後の守りであり、もっとも熱くなる場面でも冷静さを失わず、極限の瞬間のストレスと不安さえもコントロールできる能力が求められる。彼のようなプロスポーツ選手が毎週末私たちに夢を見せている。全ては可能であると。ロベルト・エンケはほかの多くのサッカー選手よりも観客にどんな困難も乗り越えることができるという幻想を見せてくれる選手だった。彼は29歳にして代表選手への道を見つけた。4年前に最初のうつにより職を失い、2部リーグへ流れ着いた後のことだ。彼とテレサは2006年のララの死の後、その痛みと平行して普通の生活送ることができるようになっていた。そして私たちの目からはまた娘とともに新しい幸福を見つけたように見え、南アフリカでのワールドカップでゴールに立つという見通しもついていた2009年の8月初めにうつがこれまでにないほどの悪い症状で再発したのだった。
彼ほどの人間に死こそが答えだと間違った判断をさせるほど、どのような力をこの病気がもっているというのだろう? 彼のように思いやりのある人間に自分の死が自分の身近な人にどれだけの痛みをあたえるかの判断をできなくさせるほどのどんな闇が彼を取り巻いていたのだろう。
うつと共に、またうつがいつか再発するかもしれないという状態での暮らしは一体どんなものだろう。不安と共に、そして不安の予感と共に。
その答えはエンケ自身が与えたいと思っていた。
この本はエンケが書きたかったのだ。私ではなく。
私たちは2002年以来の知人で、時々私は彼についての新聞記事を書いていた。過去には同じ町バルセロナの住人だったこともある。私たちは頻繫に会うようになり、人生において何が大切かについて同じ考えを持っていると感じていた。礼儀正しさ、静けさ、キーパーグローブ。いつだったか彼は言った。「君の本を読んだが、素晴らしいと思ったよ。」 賞賛をただストレートに受け取った私は照れくさくなり、その話題をそらそうとあわてて答えた。「そうだ。いつか一緒に君についての一冊の本を書こう。」私がとっさに放ったこの言葉を彼が真面目な提案として受け取っていたことに気づいた時、私はさらに赤面したのだった。
その後も彼は何度かこのプロジェクトのことを私に思い出させた。「自分用にノートをつくったんだよ。そうすれば忘れないからね。」 今になって私にはわかる。なぜ彼が自伝のことを気にかけていたのかを。ゴールキーパーとしてのキャリアを終えたあかつきには、ようやく病気について語ることができたろう。ゴールキーパーとは最後の砦であり、成果主義のこの世界でうつであることは許されない。だからエンケは自身のうつを秘密にするために全力を注いだ。彼は病を隠し通したのだった。
だから私は今、彼の生涯を彼なしで語らなくてはならない。
エンケの人生を訪ねる旅でエンケ本人のようにすべてをインタビューで語ろうとする人間がいるとは考え難いことだった。だが友人たちは突如として自分たちの暗澹たる思いを口にしてくれた。ポジションを競いあったゴールキーパーたちはプロのスポーツ選手の掟としてインタビューであっても自分の弱さを口にすることはできないはずなのに、自分たちの絶望や不安について語ってくれたのだった。
人々に愛された人間の死で私たち周囲の多くの者は誠実でありたいとか何か力になりたいとか事態を変えたいと強烈に思うようになった。まずなによりも先に彼の死がもたらしたもの、それは彼を助けることができなかったという無力さだったから。
彼とどのように別れを告げるべきなのかを私たちは知らなかった。サッカースタジアムでの告別式が果たして敬虔と言えたのか、イベントの一部となってしまったのではないかとドイツ中で議論となった。ロベルトの母親もスタジアムに息子の棺が置かれたことをいやがっていた。「私は思ったんですよ。ばかばかしい、あの子はレーニンじゃないのに!って。」ギーゼラ・エンケはイエナの台所で私にそう語った。灰色のスーツの下に青いVネックシャツというスポーティでエレガントないでたちで腕組みをした姿のロベルトはダイニングテーブルの上に置かれたたくさんの彼の写真の中のひとつに納まっていた。それでも彼女はここに座っているその姿のままに、落ち着いた温かな女性として私たちに謙虚さというものを教えてくれた。彼女は滞りなく済んでしまった葬儀に対して自分が抗議をするのは愚かしいとわかっていたし、あれは皆が最善を望んだ結果なのだと理解することで平安を見出していた。最善を尽くしたいという思いにかられて皆でやったことは、結局ずいぶん間違っていたのだ。
多くの人が彼の死を誤解していた。彼は自殺したのは生きることに耐えられなかったからだと。彼を模倣する者が出た。エンケのようになり、エンケを自らに重ねるというおかしな考えに及んでしまった。なんという悲しい誤解だろう。自殺を図ろうとするうつの人たちのほとんどは死にたいわけではない。ただその考えを支配する闇を消し去りたいのだ。ロベルト・エンケもそうだった。「もし30分でも僕の頭を持ったとしたら、なぜ僕がおかしくなるのかが君にもわかるだろう。」と彼はテレサに言ったことがあった。
そんな説明をいくら見つけたところで何にもならない。私の中でぐるぐると渦巻き、絶えず心に戻ってくる疑問に答えなどないのだから。
うつに襲われるようになる何かが彼の子供時代に起きたのだろうか?あの11月の火曜日に電車の線路に立ち入ってしまう前、車を走らせていた8時間の間に一体何が彼の頭をよぎったのだろうか?
(おわり)