5月14日の朝日新聞

耕論(おりおり論争になっているテーマを取り上げ、複数の識者の意見や対談を紹介します。)

に掲載された記事に

「やっぱりジュリー」という内容で

3人の方のインタビュー記事が掲載されていた。

 

ジュリーというのは言うまでもなく沢田研二さんの事で

 

沢田研二、愛称ジュリー。

いまもライブツアー中。

チケットは軒並みソールドアウト。

熱狂を駆け抜け、

時々変わりながら、

半世紀を超えて歌い続ける彼が映し出すのは。

 

とある。

 

私は、タイガース時代のジュリーにはほとんど関心がなく、

ソロ活動をはじめてから、

かっこいいなあと、

ファンとまではいかないけれど、

その当時は好感を持って見ていた。

あの頃のジュリーは間違いなく

きれいで、かっこよかった。

 

その後、スタイルよく美形だったイメージから

だんだん少し太めのおじさんになっていった。

そして、その程度の認識だった。

 

その彼が、現在進行形で俳優としてだけではなく、

歌手として活躍しているというニュースは耳にしていたし、

関心を持ったテーマの曲を発表していることも知った。

 

その自然体の姿も、

ある意味、かっこいいなあと思っていた。

 

そして、元の記事に戻る。

 

音楽評論家のスージー鈴木さんに聞いたインタビュー記事だ。

題名は

『75歳 貫くロック忖度なく』

 

 

実は、私の心の中で

ずっと、引っ掛かりながら

なんども反芻して、

そして、私のリダファンとしてのスタンスは?

というテーマに関わるものだった。

 

次のところは、

ファンとして、

いったいどうとらえればいいの?

というしかない。

 

「僕のマリー」や「モナリザの微笑」といった甘い愛の歌を、

美しいルックスで歌う姿は、

若い女性たちを夢中にさせました。

 ただ、洋楽が好きでロックがやりたかった彼らは、

心の底では嫌々やっていたと証言しています。

不満がたまっていた当時も、

ライブが、ヒット曲中心の中も洋楽ロックのカバーを演奏できる場だったのです。

 

 

リダもSS501をそんな気持ちでやっていたのだろうか。

嫌々かもしれないし、

そうでないかもしれないけれど、

本当にやりたい音楽ではなかったのは間違いない。

 

でもね。

SS501を好きで応援していたファンは

そんな風に言われると傷つくよね。

活動停止した段階でファンをやめておけばよかった。

 

 

そして、リダファンの私はどうすればいいのだろう。

タイガース時代からのファンが現在も自然体のジュリーを楽しめるように

SS501時代からのファンが現在もリダファンで、

これから自然体で生きていくリダを応援できればそれでいい事だろう。

 

問題は、自然体で生きていくリダについていけなくなった自分がいるってことだ。

さっさと、リダから離れてしまえば、こんなことを思わなかったかもしれない。

微妙にずれてきたことを感じたのはコロナ禍でのオンラインコンサートだった。

ライブで無かったので、

きっと、リダもこのずれに(しかも大きなずれになってきたことに)気づけなかったのではないか。

日本ファンがリダから離れていった理由の一つにこれがあることを。

 

リダがファンに応えたいからこそ、

今度のダンスコンサートがある。

もう、ダンスは踊らないと何度も言ってきても

にもかかわらず、ファンはダンスを熱望していて、

だから、リダはファンのリクエストに全力で応えるけれど、

これは『ラスト』だよって。

 

 

何がいいたいか・・・

アイドル時代に

心の底では嫌々やっていた・・

それを、目にすると

なんとなく想像はしていたけれど

やっぱり、悲しいかなあ。

 

リダの事が好きだったら、

好きなようにさせてあげる。

 

美味しいものを食べたいだけ食べて

少々、太ってきたとしてもそれを受け入れて、

リダの好きな音楽を応援する。

 

とはいかない。

 

ジュリーを応援してきて、

現在も応援しているファンのようにはなれないかも。

と思う自分がいる。