「三輪」

ー金剛流の演目よりご紹介ー

 

三輪山と山の辺の道

 

前回、三輪の神は「女性なのでしょうか、男性なのでしょうか」と書きましたが、最後――キリの謡の詞にこの演目を読み解くヒントがあります。

思えば、伊勢と三輪の神。一体分身の御事。

この「一体分身」、Weblioに依れば「一体の神仏が、衆生救済のためさまざまな姿をかりて現れること。」とのこと。そう思って見ると、また見え方も変わってきます。後場の装束が、増女という女神の顔を掛けながら、男性的に烏帽子をかぶっているのも面白く見えることでしょう。

 

この物語の出典の一つ――『日本書紀』にも三輪山と伊勢とのことについての記述があります。その昔、天照大神は女王によって三輪山に祀られていたけれど、男王が祀るようになると伊勢に遷されたというのです。その後、『古事記』に依れば、大物主大神が出雲の大国主神の前に現れ、三輪山に祀まつられることを望んだとあります。

 

そして、この演目の前場で女神、後場で男神として出てくるエピソードは、それぞれ『古事記』、『日本書紀』にあるものですが、神は大物主大神(男神)となっています。

 

こんがらがってしまいますが、この話を混ぜて、世阿弥が創作したと思うと、上手いと言ったらいいのか、強引と言ったらいいのか、苦笑いしてしまいます。

しかし、演者として見ると、

「この詞のところでは、女人という雰囲気ではなく、グッと威圧的なまでに女神の強さが出ているかもしれない」

「最後にシテ(主人公)が『思えば伊勢と三輪の神』と謡うところでは、ボソッとつぶやくようなのではないか」

(金剛流は、この箇所はシテが謡いますが、他の流儀では地謡のところがあります)

美しく神々しく演じるヒントがたくさんある魅力的な演目だと思いました。

 

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