”初めに言葉があった。
  言葉は神と共にあった。
  言葉は神であった。“

聖書の始まりは、この一節で始まる。


物心ついた時から、2つの"宗教"に触れて育ってきた。

家では、毎朝お仏壇に手を合わせて般若心経を唱え、
学校では、主の祈りで始まり、締め括られる毎日。
相手が仏様でもイエス様でも、祈る気持ちや中身はほぼ同じで、
全ての神様は実は同一人物なのかもしれないってなんとなく思ってた。

だから、私にとって宗教や神様という存在は
妄信するような特別なものではなくて、亡き祖父や祖母を想うように
日常の中で当然のようにいるものとして私の中に根付いていたように思う。


旅をするようになって気づいたことの1つに、
その国のルーツを辿ると、そこに必ず"宗教"があるということ。

世界中の人に賞賛される建築、絵画、音楽のような芸術の中にも
その国や文化に根付いていた"宗教"の影響を感じるものがとても多い。

ここまで人や文化に影響を与える”宗教”とは、一体何者なのか。

人生を豊かにするための哲学?
模範的な生活を提唱するためのルールづくり?
人類や民族の誇りを生み、文化を継承するための武勇伝?

だから去年は、いつもより少し意識して、
キリスト教やイスラム教、そして仏教の本を読んだ。


最終的に私の中で導かれた答えは、とても単純。

"宗教"は、ただの言葉だった。

人生を懸けようと思えるほど、尊敬できる師。
彼らから見習うべき人生の教えや考え方に過ぎない。

けれど、そんな言葉たちが
国も時代も越えていくほどの力になり
時に政治や科学よりも大きな影響力をもつようになる。

”言葉”には、それだけの力がある。
”宗教”とは、”言葉”のもつ底力の証明であるのかもしれない。