皆様、
こんにちは。
今日の関東は、風もなく、
穏やかで、いくらか暖かな気候でした。
そして今日も、
ディボーションを、神様の恵みの内で、
させて頂けました。
そこで、また、感謝な事に、
大きな恵みを頂きました。
今日のシェアしたい箇所は、
こちらです↓
シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。
この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中にはに入った。
しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。
それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、
門番の女に話して、ペテロを連れて入った。
すると、門番のはしためがペテロに、
「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言った。
ペテロは、
「そんな者ではない」と言った。
寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、
そこに立って暖まっていた。
ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。
そこで、大祭司はイエスに、弟子たちのこと、また、
教えのことについて尋問した。
イエスは彼に答えられた。
「わたしは世に向かって公然と話しました。
わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。
隠れて話したことは何もありません。
なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。
わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。
彼らならわたしが話した事がらを知っています。」
イエスがこう言われたとき、そばに立っていた役人のひとりが、
「大祭司にそのような答え方をするのか」
と言って、平手でイエスを打った。
イエスは彼に答えられた。
「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。
しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」
アンナスはイエスを、縛ったままで大祭司カヤパのところに送った。
(ヨハネの福音書18:15~24)
<堂々と真理を示すイエス>
何から何まで、不当で不正な裁判でした。
支配者たちは、何としてでもイエスを死刑にしようと、
夜の間にイエスを引き回し、
有罪判決を下すための審理を強行します。
その不当な仕打ちに対するイエスの態度は、
一貫として真理をあかしする、驚く程堂々として、
冷静なものでした。
不正への抗議と正義への要求が繰り返されています。
これによって、ここで裁かれているのは誰でしょうか。
光なるイエスを裁こうとして、人々は、実は、
自分たちこそ暗闇に捕えられた罪人であり、
裁かれるべき者であることをあらわにして行くのです。
<真理を捨てる人々>
ヨハネは、真理をあかしするイエスと、
真理に立てずにつまずくペテロとを、
交互に記しています。
ペテロは、イエスとともに、真理に立つ事が出来ない
自分の弱さ、ふがいなさ、無力さをとことん思い知らされて、
涙を流すことになります。
この二人を見る私たちは、「誰が裁かれる裁判か?」を、
更に深く問われます。
つまり、
被告人は不当な支配者だけではなく、
真理の側に立ちえなかったペテロら弟子たちであり、
更に、本当の被告人は、
いざという時も、真理の側に立ちえない私たち一人一人なのです。
ヨハネは、
裁かれるべき被告人は、
聖書を読むあなたであり、私なのだと言っているのです。
そして、
その裁判において、私たちに下る判決は、
“有罪”
です。
聖書は、この後、私たちのその罪を負って、
十字架にかかるイエスの救いを教えて行きます。
イエスによって、つまずきの涙は、感謝の涙に変わるのだと...。
<真理を告白して生きよう>
逆境や迫害の中で、この世を恐れて、
真理からそれてしまう事、
いざ信仰が問われるという肝心な時に、
真理を示すイエス一人を残して、
総崩れしてしまう事態は、
歴史の中で、人間が繰り返し犯してきた過ちです。
それだけじゃなく、自分が真理の側に立てない時、
真理に立つ仲間が迫害に遭っているのを助ける事も出来ません。
それを、
「あの時は仕方がなかった」
「うわべは世に妥協しても、心の中の良心は守った」
というのでは、
ペテロの涙を共有出来ず、
その後の再起も、共には出来ないでしょう。
ペテロは、この時の罪を生涯忘れずに、
キリストは、「私たちの罪をその身に負われました」(Ⅰペテロ2:24)
と書きます。
私たちの住む社会は、今、それほど、
危機的な状況にないように見えるかも知れません。
しかし、
世界には、信仰の故に、受ける迫害の中で、
真理の側に立つ歩みを貫こうとしている兄弟姉妹がいます。
私たち自身も、いつ、
ぎりぎりの信仰告白が問われるか、分からないのですから、
いつでも、イエス様と共に、
イエス様の側に立った歩みを貫く事が出来るように、
また、イエス様と共に歩む信仰の仲間を、
見て見ぬふりをしないように、祈りつつ心備えをしておきたいものです。
※祈り※
神様、私もペテロの弱さを持つ者であり、罪深い人間です。
その私のためにも、イエス様が、十字架にかかって下さった事を、
心から感謝致します。
私たちがどんな時にも、
真理を告白するイエス様と共に歩む事が出来ますように。
あたし自身も、正直、目の前の人にさえ、
イエス様を証しする事さえもままなら状態です。
主よ感謝します、と口で主に祈りながら、
隣人にさえ、イエス様を隠していました。
でも、これからは、
主に祈り、あたしのこの唇が、
真理を正々堂々と、たとえ自分の身がどうなろうとも、
告白して行ける人生を、
主と共に、歩んで行きます。
主のために、命を捧げられるまでに、
あたしを主が成長させて下さる事を、
感謝致します。
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