何となくブログを書くことが癖になってしまっています。
変な話しなんですが、書いているときに、多分程よく脳が気持ちよくなるような感覚?があって、
その状態になるために書いているという感じです。
何となくあるんですよね。今だと思うような書くタイミングだったり、
書いているうちに程よい高揚感に包まれたりすることがやっぱりあるんです。
分からない人からするとなんかよく分からないし気持ち悪いと思われてしまうようなものかもしれませんが、
自分ではイエスサインが勢いよく出ていたりします。
もっと理解されやすいように言い換えるならば、要は趣味ってそういうものでしょう。
あの人の趣味は私には理解できないと思っても、案外、趣味に夢中になるときの気持ちには共通点があったりしませんか。
文章を書くときもそうなんですが、創作物って一発で決めるというよりかは、
練り直しをしながら作っていきます。例えばこの文章も一見思うがままに書いてはいるようではありますが、
私は文章を書いたら、必ずどこかでもう一度読み返しをしています。
文章もリズムが大事なので、書くときは同じ言葉で何度も表現してしまわないように
気をつけたり、読み返しのときにもその点は再度留意しながら、特に語尾あたりは慎重に毎回直しています。
こっちの書き方の方が身体に自然に入ってくるなという感覚をキャッチしたなら、今度はそれに沿って編集をするわけです。
この読み返して、これだって思う瞬間がまた楽しかったりします。
さらに、ブログをエックスにあげて、読んでいる人もいいねも出てきたなというタイミングで、
もはや修正はしませんが、さらにもう一回でも読み直しをします。
これもなんでそんなことするのかと思う人もいるのかもしれませんが、
一度出来上がった文章を反芻することで、より文章への理解が深まるものです。
自分で書いた文章も作品ではあるので、読み返したときに充実感や満足感が得られるのなら、
作品としての価値も見出せるというわけです。
例えば、私は高校生のとき、村上春樹さんのノルウェイの森を読んで深く感動しました。
何が良かったかと言えば、もちろんストーリーの展開も心奪われたのですが、
一番に言葉のチョイスや文章が美しいと感じたことです。文章のセンスとか表現、そういったものに強く惹かれたのです。
私の父親は国語の苦手な数学の先生で、私も国語は不得手ではないものの、そんなに得意科目でもなかったのですが、
文章を書くことは子供の頃からの生きがいでした。
今から思えば、小さい頃、母親に日記帳をチェックされて、何をしたかだけを記述するんじゃない、どう感じたかを書きなさいと言われたこと、
ただ算数をするのではなく、算数の文章問題を粘り強く解くように仕向けてくれたことで、
今の私がいたりします。もちろん母親にはそのことについても感謝をしています。
親から勧められて嫌だと拒否する子供ではなかったのですが、
幼稚園の頃一度は、日記帳を持って、母親に追いかけられて泣いたことも懐かしく覚えています。
そんな母親もまたおばあちゃんも自分もどんどん歳を取っていきます。
私はアーティストでありたいので、何にしろこの先も作品を残していきたいです。
作品はずっと残っていくものですが、私はどんどん年老いて、いつかは死にます。
そう考えると、何度も繰り返し見たり聞いてもらえたりする作品を作ることの価値は何より尊いものなのです。
作品に対して、他者に共感してもらえることは、難しいことではありますが、
人に認めてもらいたいのならば、とにかく名作を作ることです。
そして社会性を持ち、社会に貢献する人材になることです。
たかが文章を書くこと、誰でもできることかもしれませんが、
作品を丁寧に仕上げる習慣はこれからも繰り返し身につけていきたいと考えています。