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耳下腺腫瘍のあとさき

のんびり観劇を楽しんでいた私が思いもかけなかった
「耳下腺腫瘍」を患ってから始めたブログです。
完治のご報告をもって終了するのが目標です。

ある日家の電話がなった。

まだ携帯電話が一般的ではないころ、もう20年以上前。
出てみると懐かしい声が受話器から聞こえて来た。
「元気にしている?もう随分会ってないからどうしても会いたいの。
○○と二人で来てほしい。」
「久しぶりねチコ、どうしたの?
仙台まですぐにはいけないよ、相談しないと。」
「ううん、仙台じゃぁなくて、大塚のがん研に入院しているから、
詳しいことはその時に話すから絶対来てね。」

彼女はどこかの癌になっているのだとその話でわかった。
ものすごく驚いて○○と相談してすぐ行くことにした。
チコと○○は私の学生時代の友人だ。
私の学んだ学科は少人数だったがその中でも
チコは目立っていて誰もが見知っている感じだった。
もうきっかけは忘れてしまったがなぜか○○と3人仲良くなり
サークル仲間とは違う友情を育んでいた。

チコは外国人のような風貌でもちろんスタイル抜群、
彫りが深く肌色や目の色が薄く
かすかに魅力的そばかすがある美人さん。
うわさではクォーターで婚外子だとかが聞こえてきた。
今でいうお受験のはしりをして地方の女子校で中高6年間を
同じような環境の乙女たちとのほほんと過ごしてきた私には
謎めいていて眩しい存在だった。
目白に住む彼女の家にも誘われて何回か遊びに行った。
誰かがいうには彼女の家にいったことがあるのは私だけだと。
休みには大島や蓼科に旅行に行ったりもした。
なぜか旅行には○○はいなくて二人だったな。

チコは卒業するとすぐに結婚してしばらくすると
ご主人の仕事の関係で仙台に住んでいた。
そのご主人との馴れ初めにも私は絡んでいたのだが
かなりの年の差婚なのでみんな驚いたものだった。
3人姉妹と4人目の男の子の子育てに忙しい毎日を
過ごしているとは年賀状で知っていた。
私自身も子育てで今のように
なかなか東京までは出掛けられなかった。

二人で病室を訪れるとチコは赤いバンダナを頭に被っていて
半身を起こしてベットに座り、はにかんだように笑っていた。
抗がん剤治療で脱毛はしていたが
彼女は相変わらずとても綺麗だった。
頸部と鎖骨辺りに放射線照射の目印である
バッテンが大きく描かれていた。
ベットの周りにはご主人や子供たちの写真、千羽鶴、
彼女が被るのであろう鬘などが所狭しと置かれていた。

どんな会話をしたか細かいことは忘れてしまったが
「乳がん」がわかったときはもう転移していて
居住地の仙台ではなく治して生き抜くための治療を
「大塚のがん研」でしているとのことだった。
絶対に元気になってまた会おうと約束した。
その後再入院した時にも二人でお見舞いにいった。


年が変わった梅雨の季節にご主人から訃報が届いた。
梅雨の暗い空模様の日「目白にある寺院」にお別れに行った。
○○は都合が悪くて私一人だった。
チコによく似て美人の長女が小学校に入学したばかりの長男の面倒を
まるで母親のようにみていてまわりの涙を誘っていた。
でもそれを見て残された子たちは大丈夫だと確信したっけ。
私のもとにはあでやかに微笑むチコのテレカが残った。
それは香典返しのなかに入っていた。
ご主人にも自慢の妻だったのだ。


どうして思い出したかというと私が参考にさせている方の
ブログに「がん研」のことが書かれていたからだ。
今はもう大塚にはなくて有明に新築移転している。
今までも今もそこではうれし涙、悔し涙を紡いでいっているのだろう。
彼女はちょうど40歳で逝ってしまった。



「美人薄命」なら私は長生きのはずだ。






 

お籠り系の温泉旅館で美味しいごはん頂いて来た。

いつもならスパかマッサージのどちらかを組むのだが
今回はどちらもしなかった。
まだ傷跡が生々しくて施術する方が驚いてもいけないし
自分自身も触られたくはないからだ。

患側の首筋が攣っていてかなりつらい。
首の動きも左右上下ともに制限されている。
そのせいかどうか肩のこりもなかなかのもので
本当ならもみほぐして欲しいところだ。
今のところは「ロキソニンテープ」と「エレキバン」で凌いでいる。
時間薬で何とかなるのかなぁ。

「耳下腺腫瘍」とわかるまでに私が感じた唯一の症状は
「首が痛い」ということだった。
痛くなって3年以上は経っていると思う。
どちらにでも首を回すと何だか痛くて、
はっているような気がしていた。
ウオーキングしながらいつも首回しもしていた。
首の運動をしてもずっと治らなかった。

鍼灸接骨院にも通い、電気療法・マッサージ・
水圧刺激ウォーターベットもしていた。
そこの施術する人が今まで経験した中でベストスリーにはいる
身体の硬さで筋肉そのものが硬いとか言われていた。
別のマッサージ師にも硬くて揉みほぐせないとか言われた。
どんだけ硬い身体なんだ、
そのせいで首が痛いのかとも思っていた


マッサージや鍼灸接骨院でも治らなかった「首の痛み」
それが耳下腺腫瘍を切除したら今までの痛みがない。
入院中の術後何日かしたら気が付いた。
「あれ、寝ていても痛かったのにあまり痛くない。」
K医師にもその話しをしたのだが
「腫瘍が筋肉を押していたのでしょう」とか言っていた。

たぶんそうなんだろう、私の場合は腫瘍が深葉にあったので
奥まったところで筋肉や神経に影響していたのだろう。
手術して今までの「首の痛み」はなくなったけれど
今度は手術後の後遺症なのか首筋の突っ張りで痛い。


結局どちらにしても「痛い首」なのだ。


先日久しぶりに観劇した。

宝塚歌劇花組「エリザベート」、友人3人に合うのも久しぶりだ。
「耳下腺腫瘍」の話は手術が済んでからメールで話したが
みんなそのような病気は初めて聞いたと驚いていた。
患者本人もそうなのだから本当に少ない症例なんだなぁ。

気がかりでもあった友人のご主人の病状を聞いた。
彼は昨夏、血尿で受診したのだがもうかなり病状が進んでいて
リンパ節転移、ステージ3の「膀胱がん」だったのだ。
中にも周りにも浸潤していて手術不可で
まず抗がん剤治療だった。

抗がん剤治療が功を奏してしばらくは
お仕事にも復帰されていたのだが今年になり吐き気で
食事がとれなくなり、調べた結果腸閉塞とわかった。
胃と腸をつなぐ手術がうまくいってまた元気を取り戻された。
ずっーと抗がん剤治療を継続されているが
最近腹膜播種となり、なかなか大変な病状だ。

手術・抗がん剤治療・放射線治療の標準治療がうまくいかなくなると
がんの終末期ケアの緩和医療に移行していくのが今の医療だ。
「治療方法がない」といわれても本人はまだ普通に過ごしていると
何か手だてがあるのではと情報の海に泳ぎだす。

友人は関東在住でご主人は顔が広く、仕事の関係で紹介された
その地方の大学病院で治療を受けている。
主治医の顔色をうかがいながら調べたことを相談しているらしい。
その大学病院ではしていない治療を受けたいけれど
帰って来て今の病院に通院や入院が出来なくなるのも大変困る。
たまたま主治医の出身校で温熱療法(ハイパーサーミヤ)を
実施していたので紹介してもらって並行治療しているとのことだ。

余命も聞いているとのことだったが、今希望していた治療が
受けられるのは「運が良かった」と言っていた。
他には免疫力を高めるために
かなり高価なサプリメントも飲んでいるとのこと。
病気と戦う意志の強い彼女ら夫婦は可能性や希望を求めている。


情報を求めて彷徨う「がん難民」の辿り着くところはどこなのだろう。