もうすぐ夏が巡ってくるというのに秋の写真を。
相変わらずの時差に我ながら笑ってしまうけど、わたしにはどうやら5カ月必要だったらしい。
さて、写真集を眺めていると、カメラの前で過ごしてくれた "まゆさん(アメブロではふっすー)" がそこに居て、その頃の私がひょこんと顔を出す。
「はじめまして」と、甲子園口駅前の普通のコーヒーショップで挨拶をして、
数時間を過ごしただけなのに
なぜか距離はもっと近くに感じる。たった一度しか会っていないことに今更ながら驚いた。
写真を撮っている時の詳細はあまり覚えていないけれど ※いつものことです
まゆさんの印象は、
(体格が良く美形の外見に包まれているので、うっかりすると忘れてしまいそうなほどの)
繊細さと素直さだった。
美意識が高く美しい殻を持った貝が時々ひらく。
見上げてるこの写真はまゆさん撮影!
優しげな枝を広げた秋ニレの木。
寝転んだり、幹に触れたり。冬の前だったのにあたたかな日でした。
なぜ私は写真を撮るのだろう。時々ふと考えるけれど、撮りたくなる瞬間があるから。単純だけどやっぱりそう思う。
48歳になった私は、未熟ながらもそれなりに成長していて、昔は徹底的に自己否定していたけどそんなことも日頃はすっかり忘れている。
18歳の私は、ほんとうは写真を撮ってもらいたかった。でも、容姿もスタイルにも自信がなく、実際のところぜんぜんモデル向きではなかったし。
「撮ってもらいたい、でも私なんかダメ」と葛藤を抱きつつ拗ねている。「撮って」と言えなくて。
言葉と気持ちを封じ込めたままの私が、忘れ去った領域のどこかにいるかもしれない。これは私が人を撮りたいという根っこにある体験だと思うけど、それにしても私はなぜ撮ってもらいたかったのだろうか。写真部の暗室に、夢中で篭っていた頃。
まゆさんの撮影では、写真集が仕上がるまでに私は様々な学びをさせていただいた。
繋がること、受け取ること。面白さは、混ざり合う良さであるし、魂の声に従うことは最も大切。
写真を撮る時間と写真集は、3人が関わりあった中で生まれるもの。
あの「秋の日のまゆさん」はもういない。秋、冬、春。そしてもうすぐ夏が来る。日々新しくなっていく私たち。
写真を見ているといろんな気持ちが浮かんでくる。
イマココが全てであり、過去も未来もない。だけど、その時の「イマココ」を写し撮った写真たちを愛しく感じる。
カメラの前でともに過ごしてくれたまゆさんありがとう。
現像作業中にゃん