一、

 

 

 夜は、まだ明けない。

 

 空の端が、ようやく白み始めた。

 

 その朝ぼらけの中に、お由布は父の背中を見た。父の大きな父の背中は、どんどん遠ざかっていく。どんどん遠ざかって、やがて明けきらぬ空の端に消えた。

 

 

 

 大工だった父が普請場の事故で亡くなり、後を追うように体の弱かった母も、月日を置かずに病で亡くなった。

 

 そののち、口を利いてくれる人があり、両国の料理茶屋「日野屋」に住み込みの奉公に上がることとなったのは、それから2年後のお由布がちょうど10歳になった春だった。

 

「日野屋」は、主夫婦の他には、豆腐作りの職人に住み込みと通いの女中を合わせても十名足らずの小さな店であった。しかし、看板料理の淡雪豆腐はもとより、座敷や庭の造作までも売り物にした、両国でも屈指の名店の一つである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 明けきらぬ空を見つめながら、お由布は「ほぅっ」と小さく息を吐いた。痛む手に目をやると、その小さな手は冬場の水仕事のために真っ赤に腫れていた。

 

 泣きたい気持ちはもちろんあるけれど、泣いてなんかいられない。お由布は、生きていかねばならない。

 

 

 夜は、まだ明けない。

 

 明けきらぬ空の向こうには、どんな明日が待っているのだろう。


 

 

 

 

 

つづく