震災前日に知らされた真相 | ゆめたんのマイペース日記☆

震災前日に知らされた真相

「今まで黙っていたけど…」震災前日に知らされた真相 1人で育ててくれた母親は津波に飲まれた #知り続ける





 「今まで黙っていたけど……」。宮城県多賀城(たがじょう)市の自営業、斎藤美恵さん(42)は12年前のその日、初めて母から真実を聞かされた。子供の頃、親子離ればなれに暮らさなければならなかった理由についてだった。2011年3月10日のことだ。


思わず反発が口をついて出た。「そんなの私が寂しい思いをした理由にならないよね」。翌日、東日本大震災の津波で母は亡くなった。最後の会話が親子げんかになってしまったことを、斎藤さんは今でも悔やんでいる。



斎藤さんは当時、1歳8カ月の長女を持つシングルマザーで、飲食店の仕事を辞めて育児に専念していた。住まいは宮城県七ケ浜(しちがはま)町の海沿いにあった祖父母宅。同じ敷地の離れで、母の渡辺菊江さん(当時48歳)が暮らしていた。



3月11日、斎藤さんは泣きやまずにぐずっていた長女を寝かせようと車に乗せて外出していたところを、強い揺れに襲われた。たまたま内陸部にいて助かったが、斎藤さんの携帯電話には、町内の歯科医院に出勤していた菊江さんから留守番電話のメッセージが残されていた。「今、お母さん、家に帰ってきたから、あなたたちも早く戻っておいで!」。この後、菊江さんと祖父母は津波にのみ込まれた。2カ月が過ぎた頃、菊江さんは自宅から10キロ以上流された場所で見つかった。祖父は2年後に発見されたが、祖母の行方は今も分かっていない。

ぶつけ合った本音 語り出した真相


 斎藤さんが菊江さんと最後に言葉を交わしたのは震災前日、電話でだった。母屋と離れに分かれて暮らす2人は、普段からちょっとした用件は電話で済ませていた。

 その日も、斎藤さんと長女、菊江さんの3人で休日に出かける予定が菊江さんの都合でだめになったという話。よくあることだ。いつもの斎藤さんなら「残念ね」で済ませていた。

 でも、その日はなぜだか我慢ならなかった。「子供の頃は私を放っておいて。今もどうして子育てをもっと手伝ってくれないの?」



斎藤さんは、かつて味わった寂しさを口にした。ひとりっ子で、物心がついた時には両親はそばにいなかった。離婚して斎藤さんを引き取った菊江さんは、我が子を両親に預け、仙台市に住みながら歓楽街の飲食店で働いていた。夜の仕事を辞めて七ケ浜に戻り、歯科助手として働き始めた頃には、娘の斎藤さんは中学校を卒業するまでに大きくなっていた。

 本音をぶつけたのが響いたのか、菊江さんも真相を語りだした。「あなたの父親が作った何千万という借金を肩代わりしたの。『もう子供には会うな』という条件でね。だから、あんな生活になってしまった」。寂しい思いはさせたくなかったこと。元夫と縁を切って娘を守るためには仕方なかったこと。返済にすごく苦労したこと――。どれも初めて聞く話だった。でも、どうしても素直に受け止められない。「私には関係ないし、理由にならない」。そこからは売り言葉に買い言葉。電話はけんか別れに終わった。


交錯した「ごめんね」と「ありがとう」





いつだったか、津波でがれきの山と化した自宅で、菊江さんが大切にしていたバッグを見つけて持ち帰った。それを見る度に涙がこぼれた。「何であんなにひどいことを言ったんだろう」。子供の頃に離ればなれだったとはいえ「大好きなお母さん」であることはずっと揺るがなかった。年にわずか1、2回、お出かけに連れて行ってくれる日が待ち遠しかった。成長してからは、器の大きい人柄を尊敬してもいた。心の中で「ごめんね」と「ありがとう」が何度も交錯した。

 後に分かったことだが、菊江さんは斎藤さんと長女のために蓄えを残してくれていた。「借金があったシングルマザーとしては信じられない金額」だった。そういえば、長女を出産後、仕事に復帰しようとして止められたことがあった。「今しか子供といられないし、一番かわいい時に面倒を見た方がいい。ある程度大きくなるまでは私が働くから」。自分の娘と孫には同じ寂しさを味わわせてはいけない――。そんな母の思いが、斎藤さんには痛いほど分かった。



無邪気な娘の存在が生きる支えに



 「小さかったから覚えてないだろうけど、君も震災を経験してさ」。長女が小学2、3年生になったある日、斎藤さんは食卓を囲みながら初めて当時の体験を話した。菊江さんや祖父母が津波の犠牲になったということも。隠そうとしていたわけではないが、それまであえて話題にすることはなかった。学校の授業で震災について取り上げられたと、長女が話してくれたのがきっかけだった。

 「大変だったんだよ。避難所でトイレに行きたくても君がずっとくっついてきて行けなかったり、支給された食パンを私の分まで食べたりして」「そうだったの?」。親子がほほえみを交わすリビングに、和やかな空気が流れた。






振り返れば、そんな無邪気で幼かった娘の存在が生きる支えだった。家族3人の安否が分からなかった震災直後は、特にひどい孤独感にさいなまれた。「身を投げよう」と思った瞬間もある。そんな苦しみも、育児に追われている間だけは忘れられた。「私がいなければこの子は生きていけない」。朝起こして、着替えさせて、ご飯を食べさせて、遊びに連れて行って、お風呂に入れて、寝かしつけて……。毎日が子供のリズムに合わせて過ぎていく。「生きてくれていて、ありがとう」。面と向かっては言わないが、今は中学1年生にまで成長した長女に、これまで心の中で何度も感謝を伝えてきた。

 斎藤さんは13年、当時の再婚相手との間に長男を授かった。20年からは米粉を使った菓子やパンを製造・販売する事業を始め、個人客だけでなく百貨店や空港にもたった1人で商品を納める。掛け持ちでカフェの店員としても働いており、子育てと仕事に忙しい日々を送る。

 菊江さんや亡くなった多くの人たちには、まだまだやりたいことがたくさんあったはずだ――。そう思うからこそ、斎藤さんの生き方は変わった。「物語に出てくるセリフみたいだけど」というその心がけは、子供たちにも伝えている。

 「時間って限られているものだよ。今日と明日は全く違うことが起きるし、当たり前は当たり前じゃない。だから一日一日をすごく楽しまなきゃ」