播州弁、怖い | ヒコニャンのブログ

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平成27年9月20日(日)神戸新聞転載
神戸新聞編集委員  仲井雅史

「播州弁、怖い」。故郷播磨を離れた学生時代、そんな悪口をよく耳にした。他府県の学友が言うには、会話が「けんか腰」だとか。大学で怖い人とされたのは、「ごーわく(腹が立つ)」とつぶやく女子学生だった。「ああ、それは姫路の子や。すまんなあ。悪気はないんや」と言い訳したものだ。

   もっとも、播州弁には地域によって幅広いバラエテイーがある。しかし、他国には総じて怖い、いや、おとろしいそうな。

   非難は今に始まったことではない。江戸時代後期に姫路藩が出したお触れがある。城中で言葉が乱れており、「なんぼ」は「いくら」、「しんどい」は「くたびれた」、「ぬくい」は「暖かい」と言い直せ、うんぬん。江戸生活の多い殿様には
、耐えがたい発音が姫路場内で飛び交わっていたのだろうか。

 私事で言うと、一族そろって播磨在住。今でも標準語と思い込んでいた単語が方言と知り、がくぜんとするほどだから、日常生活で播州弁を怖いと思うことはない。むしろ、方言だから伝わる心がある。5月に亡くなった姫路出身の直木賞作家・車谷長吉さんは、方言を駆使して文学に昇華させた。強烈な浜手の言葉でつづられた小説には、字面以上ににじみ出る味わいと力があった。それは播州人の読者だけが楽しめる特典だった。

   方言にこそ、魂が宿る。国替えで関東から姫路に移った酒井藩士も気付けば、播州弁に染まる。東国武士の心を奪ってしまう土俗的な言葉の力を藩主は恐れ、禁止したのではないか。

  今、観光客でにぎわう城下で夢想する。訪れた人たちが次々に''播州力''に染められ、「怖い」が「好き」に変わる日を。
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たつの市龍野城下  そうめん処 霞亭に貼られていた平成播州ことば大番附

西方 東方に分かれています
西方横綱は 大丈夫➡ べっちょない
東方横綱は とても➡ ごっつい
です

こなた  播州弁漫遊録
西方横綱は ごうわく(腹が立つ)でした

姫路市内から市外の学校に越境通学しましたが、同じ区内の隣の中学出身の同級生(不合格だったら、同じ高校を受ける予定でした)は、髪の毛が伸びてきたら、アイパーのパーマをかけ、剃り込みを入れ、学生服裏地には龍虎の刺繍を入れた特製。ズボンは幅広のいわゆる学ランでした。ちなみに当時は姫路市内の公立中学迄は丸坊主頭(3枚刈以内)でした。

「アイツ、ごーわくのー❗しばいたろか❗」
当然、先生に隠れてタバコをを吸い、授業は出席を取ったら、エスケープ、バイク免許は高校1年で取得し、内緒でバイクに乗る奴でした☺

結局1年➡2年(留年)➡2年➡退学
その後、どうしたのかは知りませんが、真面目になって、8月にやった同窓会にも来てくれました☺5年前僕が脳内出血で倒れる約1週間前の同窓会にも来てくれてました。今では真面目な黒色の七三に近い髪型になっています。人生どう転ぶか(半回転するか一回転するか)わかりません。

女子生徒  へたり込んでは  缶ジュース
                (座り込む)    
ごうがわく  犯罪汚職の  記事ばかり
(腹が立つ)

せんどぶり  ついほとばしる  播州弁
(久しぶり)

※せんどぶりは、淡路赴任した時、洲本在住の先輩が、電話☎や会話で、「おまはん、せんどぶりでーか❗」と言ってたのをつい先日のように、思い出します。
淡路時代の仲間によると、毎朝自転車で出掛け通学路で小学生の通学を見守っているらしいです。
我が姫路市内の小学校では、本町橋交差点(通勤車両やバイク)や網干小東横断歩道(バスやバイク、ダイセル化学、ダイワ通勤車両が通ります)で毎朝父兄が2名1組で黄色い文の旗➕を持って通学を見守っています。

位置に父兄が2名立っていました

ようさんの  ファンに縦縞  甘えとる
 (沢山)

いかめいな  へそ出しでけん  三段腹
(うらやましい)

キミ陣頭  おまはん店頭  わい路頭
                 (あなた)    

下三段の播州弁は
播州川柳マンガなんじゃ かんじゃ
NPO法人コムサロン21播州弁研究会
〒670ー0932
兵庫県姫路市下寺町43
姫路商工会議所新館4F
☎079ー224ー8803
より引用させていただきました。
※淡路赴任した頃、洲本在住の先輩が
いきなり、「おまはん、播州姫路の出ーけ⁉そえとも淡路の出ーけ⁉」と問いかけられました。

洲本の由良の聖子ちゃんは、淡路に住んでいて絵手紙教室でいつも一緒になる方もご存知でした。

ヤッパリ聖子ちゃんは有名やった✨✨