現代語訳『三州奇談』 その9「大人の足跡」 | 三四郎の鞄

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昔の人も巨人には大いに興味があって、あれやこれやと想像した話です。

 

 

現代語訳『三州奇談』 その9「大人の足跡」

 

 

堀麦水の『三州奇談』は、近世中期に成立した加越能の奇談集である。今回は、「大人の足跡」(巻之四)の現代語訳である。前半は大人の足跡、後半は三薄の宮(みすすきのみや)と、2つの話から成っている。いずれも河北潟周縁の伝承である。

 

 

「訳」

―大人の足跡(前半)

 

河北潟縁の木越の道場とは、天正の頃の一向一揆の戦いがあった際、木越三光、つまり寺号に光という字がついた寺があったのだが、そのひとつ、光徳寺の城壁があったところなのである。戦の際には、寺の周りに湖水を引きこんで要害となして、光琳寺などの寺とともに手を組んで信長勢と戦った。

 

大手から佐久間盛政が攻め寄せ激闘を繰り広げているうち、搦手からは長連竜がはせ参じてきて、湖水の堤を切って水を落としたため、城を守ることが難しくなり降参して、光徳寺は、能登所口(七尾)に落ちて行った。現在の所口広徳寺というのがそれである。

 

光徳寺跡は、現在船掛りとなっていて、蓮如上人の旧跡として種々の宝物があり金沢からの遊覧の地となっている。光徳児の跡には古木の梅がありめずらしい房のような花を咲かせるという。

 

光琳寺の跡は、今は田んぼの中にあるが、そこには大人の足跡がある。土が落ち窪み、草一本も生えず、そこには足の指までがはっきりあり、間違いなく足跡のようにみえる。その下は石であろうか、まことに奇怪である。

 

さらに能美郡波佐谷にも山の斜面に同じような足跡があり、ここも指のところが窪んでおり、草が生えていない。

もう一つ倶利伽羅山中の打越に足跡があり、これらの足跡は皆同じである。長さは九尺余り、幅は四尺ほどである、

 

現在はっきりしているのはこの三つの足跡であり、一歩の間隔は七、八里もある。どのような巨人が歩いたのだろうか。能美郡では土地の人は、たんたん法師の足跡と伝えているが、いつのころからそう言い伝えられているのかわからない。

 

木越の足跡は田んぼの中にあるので、草が生える季節には遠くからでも、はっきりそれとわかる。実に壮大な眺めである。この傍らに長氏の兵士の討ち死の塚がある。

 

 

 

―三薄の宮(後半)

 

河北潟べりの八田村に鈴木三郎重家の塚というものがあり、今は三薄の宮といっている。

 

重家から五代目の新九郎がここで百姓をしていたが、ある時潟で鱸を釣り上げた。この鱸はたちまち美女となり新九郎と夫婦になった。年月がたって竜宮から迎えがあり妻は帰ってしまい、あとには死んだ鱸が残された。新九郎はその鱸を埋めて塚を築いた。新九郎は富樫に仕え近辺を治めていたが、死後同じ塚に葬られた。やがて、ここに薄が生えてきた。

 

村の人はこれらを一つの社に祭り三薄の宮と呼び、餅酒を供えて祭りをした。ある時祭礼をしなかったところ、村中が疫病にかかった。社にお詫びの祭礼をおこなうと、疫病はおさまった。その後ここには薄がたくさん生い茂った。これを切ると血が流れた。村人はたいそう恐れ、今なお祭礼を欠かすことがない。

 

 

 

「三薄の宮」は、巻之五「大人の足跡」の後半部分で、話の前半の木越村から、すぐ近くにある八田村に舞台を移す。農業主体の木越と違い、八田は農業と漁業を営む集落であった。ここに鈴木・鱸・薄という発音が同じ、三つの「ススキ」をテーマにした話が語られている。