両親は、悲しんでいることは確かですが冷静です。
母は「本当に死んじゃったの?」と言いながらも、
ふたりして警察が帰った後もご飯を食べていました。
わたしは食事を摂る気分ではなかったけれども、
それは悲しさから来るものではありません。
わたしは常々姉が死んでも悲しまないだろうとは思っていました。
今、わたしに悲しく思うところが全く無いわけではありませんが、
その悲しみは、
実の姉が死んでも、辛くもなく冷静でいられる、そんな自分のこころと、
情愛を感じない姉との関係についてなのです。
子供の頃から、姉を好きだとか、やさしいお姉ちゃんとか感じた憶えがなく、
良い感情を持てずにいました。
でも、無関心で冷たかったのは、わたしの方で、
わたしがもっとこころの広い人であれば、
わたしの中に姉の居場所はあったのかもしれません。
わたしは姉を理解できず、許容できず、
それは態度がそうであったということだけではなく、
実に最後までわたしのこころの中には姉はいない人なのでした。
わたしはきっと生涯伴侶もなく生きていくであろう一方で、
姉は結婚し、子供も生んだのに、
平穏に暮らせなかった。
いろいろ足りないところがあって、うまくいかないことの多い人で、
もはや友だちのひとりもなく、
きっとやりたいことも楽しみもなく、
体が死を迎える以前にこころがすでに死んでいたような日々。
死亡の原因は特定できていないけれど、
すでに体が老化して痛んでいたために複合的におきたらしい死。
欠けていたものは、知性か、克己心か、感性か。
全てだったかもしれない。
だからああいう人生だったのかもしれないけれど、
そういうものが備わっていなかったからだとしたら、
かわいそうなことだったと、わたしは思う。
たぶんそう苦しんで死んだわけではなかったらしいことだけが幸運だった。
長い人生お疲れ様でした。お姉ちゃん。