楊貴妃ゆかりの仏像。
さらに詳しく見ていくと、どうやら元寇(蒙古襲来)との深い関係が見えてきました。

今回は、現地で見た仏像と歴史資料、そして専門家の意見をもとに、向津具に伝わる楊貴妃伝説について考えてみたいと思います。



二尊院に伝わる「楊貴妃伝説」


向津具の二尊院に伝わる楊貴妃伝説。
仏像を中心にあらためて簡単にまとめると、

・唐の玄宗皇帝が楊貴妃のために二尊仏を用意した
・しかし楊貴妃の墓所が分からず、一度京都の清凉寺へ預けられる
・後に、楊貴妃の墓所が判明し、移そうとしたが、京都で既に大事な仏像となっていた為、レプリカを作って分け合うことに。
阿弥陀如来は日本で新たに造られ、中国から送られた釈迦如来とともに向津具へ伝わった

というものです。

面白いですね。
私もこの伝説は大好きです。

ですが、疑問がありました。

今ある仏像は、本当に唐の時代のものなのだろうか?


調べてみると、現在残る阿弥陀如来像の胎内から墨書銘が発見されています。

そこには、「文永五年」と記されていました。

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​文永五年っていつ?


西暦1268年、鎌倉時代よ。

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つまり、阿弥陀如来像は1268年に造られたことが分かっています。

社伝では阿弥陀如来像は日本製、釈迦如来像は中国から渡来したとされています。
その為、阿弥陀如来像が鎌倉時代の物と断定されたからといって、釈迦如来像渡来説は否定されません。

しかし、釈迦如来像は「清凉寺式釈迦如来像」という形式です。

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​「清凉寺式」ってなに?


簡単に言えば、京都の清凉寺にある有名な釈迦如来像をお手本にした仏像よ。

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​人気のデザインってことね。


そう。鎌倉時代に流行したわ。

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​こっちも鎌倉時代なのか〜。


京都の清凉寺にある釈迦如来像は、北宋で雍熙2年(985年)に作られ、その4年後に後の清凉寺に持ち込まれたとされています。

また、玄宗皇帝が生きたのは8世紀(756年没)。
向津具の二尊院の社伝と、どう考えても整合性がとれません。

阿弥陀如来像(二尊院)……南宋・元/鎌倉時代制作
釈迦如来像(二尊院)…… 南宋・元/鎌倉時代に流行した様式
釈迦如来像(清凉寺) ……北宋/平安時代

二尊院の仏像は二体とも同時期に制作された可能性が高く、現在残る仏像そのものは、楊貴妃の時代のものではないと考えるのが自然でしょう。

年代がぴったり一致する「元寇」


ここで、フォーラムで教えていただいた話が非常に興味深いものでした。



1268年という年は、ちょうど元から日本へ国書が届き、元寇の危機が現実味を帯び始めた年です。
朝廷はこの年、京都の東寺に異国降伏の祈祷を命じています。

そして1285年には、長門国一宮にも異国降伏の祈祷が命じられました。

さらに二尊院には二尊像だけでなく四天王像もあります。
この四天王像は1285年制作とされており、異国降伏祈祷が盛んになった時期とぴったり重なります。



つまり、
1268年 二尊像制作
1285年 四天王像制作

という流れは、元寇に備える祈願の為の仏像だったと考えると非常に自然なのです。

なぜ楊貴妃と結び付いたのか?


フォーラムでは、
楊貴妃を、中国を衰退させた人物として崇めたのではないか
という意見を聞きました。
また、熱田神宮にも楊貴妃の墓があることも。

調べてみると、鎌倉時代後期の天台宗の仏教書『渓嵐拾葉集』巻六には、
熱田神宮の社壇の後ろにある五輪塔は楊貴妃の墓である
という記述があるそうです。

さらに名古屋には、

・楊貴妃は熱田大神の化身だった
・唐の玄宗が日本侵略を企てた
・楊貴妃が混乱させて侵略を阻止した
・最後は命を落とし熱田大神へ戻った

という伝説まで残っています。

これも、成立時期は鎌倉時代。
やはり元寇という時代背景の中で、中国と日本を結び付ける物語が生まれた可能性を感じます。


だったら神功皇后で良かったのでは?


ただ、一つ引っかかることがあります。
もし異国降伏を願うための伝説を作るなら、神功皇后で良かったのでは?ということです。



福岡県の筥崎宮には神功皇后が祀られています。

ここは応神天皇を出産した際、その胞衣(えな)を納めた箱を埋めたことから「筥崎」の名が付いたと伝わる場所です。

さらに、醍醐天皇が「敵国降伏」の宸筆を下賜しています。

また山口県にも神功皇后ゆかりの豊浦宮があり、この地域には神功皇后伝説が数多く残っています。

さらに、山口県下関市には「蒙古軍を撃退することの容易でないことを憂い、神功皇后の新羅征討の故事を思い、幣帛を奉って奉斎した」と伝わる神功皇后神社まで存在します。

神功皇后には三韓征伐の伝説があり、元寇と神功皇后は非常に結び付きやすい存在だったのです。

それなのに、向津具では楊貴妃伝説になった。


伝説には「核」があったのではないか

向津具は古くから大陸との交流があった日本海沿岸です。
実際に中国から漂着物が流れ着くこともあります。

楊貴妃その人かはさておき、実際に中国から女性が漂着してきた事実はあったのかも知れない。

私はそう考えます。



皆さんは、この向津具の楊貴妃伝説をどう感じましたか?

「元寇が生んだ作り話」だと思いますか?
それとも、
「もっと古い出来事が核になっている」と思いますか?

ぜひコメントで、皆さんの考えを教えていただけるとうれしいです。


【訪問先基本情報】

名称:楊貴妃の里/真言宗 御室派 龍伏山 二尊院
所在地:山口県長門市油谷向津具下久津3539
アクセス:JR人丸駅からブルーライン交通バス大浦行きで35分、二尊院口下車徒歩5分
駐車場:あり

【今回の旅で使ったもの】

雨予報だったので、今回は雨対策をしっかりして出かけました☔

・雨が降りそうだったので レインシューズ
・雨が降りそうだったので 超薄型 軽量 和柄折り畳み傘
・古代風コーデ イヤーカフ
・古代風コーデ 勾玉ネックレス
・涼しく着られる サマーニット
・冷房対策にも便利な 薄手カーディガン

今回の長門旅行の一番の目的は、ヒストリアながとで公開されている有柄細形銅剣を見ることでした。


↑これはクリアファイルにプリントされた銅剣の写真の写真



有柄細形銅剣って、そんなに珍しいの?


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通常の銅剣と何が違うの?


1番の違いは、柄まで銅で出来ていることよ。国内で4例しか見つかっていないの。

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↑某所に展示してあった銅剣や銅矛・銅戈。


通常、柄の部分は木で出来ていて、出土時は残っていないことが多いのよ。

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だから「有柄」って名前なのね。


国内で見つかっているの遺跡は具体的に、


・柏崎遺跡(佐賀県) ※私はまだ行ったことがない。


・三雲南小路遺跡(福岡県)

※写真はレプリカ


・吉野ヶ里遺跡(佐賀県)

※写真はレプリカ


と、今回の王屋敷遺跡(山口県)。


さらに、韓国の茶戸里1号墓からもよく似たものが出土しています。



吉野ヶ里のものや韓国のものとは形もよく似ているわ。

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​研究が進めば関係性も分かってくるかもしれない。楽しみ♪


ところで、上記の韓国の有柄細形銅剣。

2023年、九州国立博物館で開催された「加耶展」で私が見たものです。


当時は「鞘まで残っているんだ!」くらいの感想しかありませんでした。

まさか柄がある銅剣そのものの価値を、数年後に長門まで行ってから感じることになるとは、思ってもいませんでした。


実物を見て思ったこと

写真撮影は禁止だったので紹介できないのが残念ですが、保存処理が行われた有柄細形銅剣は、とてもきれいな状態で展示されていました。


実物を見て最初に思ったのは、「思ったより大きくない」。

そして、「変わった形だな」ということ。


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​なんか、下の横に長い飾りが邪魔で持ちにくそう。


今、一般的に考える剣とは持ち方が違うみたいよ。

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逆手に持って下へ突き刺すように使われたと考えられているわ。

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​なるほど!それなら納得。


30年ぶりの一般公開

この銅剣は1901年、王屋敷遺跡で地滑りの復旧工事中に発見されました。

1956年には国の重要文化財に指定されます。


しかし個人所有だったこともあり、過去30年間で一般公開されたのはわずか2回だけ。


今回、所有者から長門市へ寄託され、市が保存処理を行ったことで、今年3月から一般公開されることになりました。


貴重な文化財を、こうして誰でも見られるようになったのは本当にありがたいことです。


長門の「有柄細形銅剣愛」がすごい

展示だけではありません。


ミュージアムショップには、


・クリアファイル

・トートバッグ

・ハンカチ

・Tシャツ


など、有柄細形銅剣グッズがたくさん並んでいました。


しかも「ムカツク」とカタカナで書かれたデザインがあって思わず笑ってしまいました(笑)。


センスがいい😉


受付の女性も有柄細形銅剣Tシャツを着ていて、「長門市は本当にこの銅剣を大切にしているんだな」と感じました。


私は実用性重視でクリアファイルを購入!

さっそく資料館やこの後のフォーラムの資料を入れて使いました。

旅の良い記念にもなりました♪


吉野ヶ里でも長門でも銅剣鋳造体験が行われていますが、今回も日程が合わず参加できませんでした。

いつかは挑戦してみたいものです。


まだ研究は始まったばかり

吉野ヶ里や韓国で出土した有柄細形銅剣との関係など、新しい発見が今後明らかになるかもしれません。

そんな未来を楽しみにしながら待ちたいと思います。


もし長門へ行く機会があれば、ぜひヒストリアながとで、国内4例しかない実物を見てみてください。


【訪問先基本情報】

名称:長門市総合文化財センター ヒストリアながと
所在地:山口県長門市東深川2660-4
アクセス:JR長門市駅から車で5分
駐車場:あり

【今回の旅で使ったもの】

雨予報だったので、今回は雨対策をしっかりして出かけました☔

・雨が降りそうだったので レインシューズ
・雨が降りそうだったので 超薄型 軽量 和柄折り畳み傘
・古代風コーデ イヤーカフ
・古代風コーデ 勾玉ネックレス
・涼しく着られる サマーニット
・冷房対策にも便利な 薄手カーディガン






長門旅行記も終わらないうちに、次の旅行かありましたよ。



飯塚観光協会主催の「長崎街道」バスツアー。


嶋田先生(元 飯塚市歴史資料館館長)案内で行ってきました♪




〜タイムスケジュール〜


09:00あいタウンバス降車場発


09:40冷水峠石畳(散策)


10:30首なし地蔵


11:20内野宿着

12:50飯塚宿着


13:00寿司万


14:50木屋瀬着


15:00木屋瀬宿記念館(みちの郷土史料館)


15:50市指定高崎家住宅(伊馬春部生家)



冷水峠を歩いたり、
内野宿を歩いたり、
飯塚宿を歩いたり、
木屋瀬宿を歩いたり。



よく歩きました!!



雨の中の冷水峠峠歩き。


ハプニングもありましたが、それも含めて良い思い出になりました😊


長崎街道の石畳はなかなかに雰囲気がありましたよ。


詳細は長門編が終わった後、順番に書いていきます✏️





長門市で公開される有柄細形銅剣を見るなら、当然ながら出土地にも行ってみたくなります。


ということで、古代史仲間と一緒に王屋敷遺跡へ向かいました。


ところが、この遺跡探訪。

予想外の方向で思い出深いものになりました。




まずGoogleマップで迷う


最初に向かったのはGoogleマップに表示されていた「向津具遺跡」です。



有柄細形銅剣の出土地なのだから、きっと何か案内板くらいはあるだろう。

そんな気持ちで現地へ向かいました。



到着。

……何もありません。

遺跡らしいものもない。

案内板もない。

目印もない。

ただ普通の風景が広がっています。


そこでGoogleマップの登録写真を確認してみると、一枚目に出てきたのはどう見ても楊貴妃の墓。

どうやら間違った写真が登録されているらしい。


「遺跡が消えたのかもね」

「行ったけど何もなかったは遺跡あるあるだよね」

などと話しながらも、どこか諦めきれません。


せっかくここまで来たのです。

せめてここが本当に出土地なのかだけでも確認したい。


そこで私達は案内板探しを始めました。


ようやく見付けた王屋敷遺跡


しばらくしてお仲間さんが言いました。

「日吉神社のところに『王屋敷遺跡』の案内板の写真があるよ」


なるほど。

それなら神社へ向かえば見付かるかもしれない。


そう思って車を発進させます。


するとすぐ、

「あれじゃない?」


お仲間さんが道端にある案内板を発見!

車を停めて確認すると、間違いなく王屋敷遺跡の案内板です。


「やっぱりここだったんだ!」

「よく気付きましたね」

「本当に危なかった」


そんな会話をしながら案内に従って進みます。


最近設置されたらしい矢印もありました。


さらに獣害防止用の柵があります。


案内に従って開けて入り、また閉める。


遺跡に辿り着くまでの冒険感が少し楽しい。


そしてようやく到着したのが、

『王屋敷遺跡跡』

と書かれた場所でした。


正直に言います。

何もありません。


ですが古代史好きにとっては、それで十分なのです。


想像力こそ現地探訪の醍醐味


一般の方から見れば、「だから何?」と思うかもしれません。



ただ、「たぶんこの辺だったんだろうな」と想像するのと、

「ここが出土地です」とはっきり示されているのでは全く違います。

案内板一枚の価値は大きいのです。


しかも近くには意味ありげな石もありました。

きっと何かを祀っているのでしょう。


そして周囲には田んぼが広がっています。


その風景を眺めながら、考えました。

有柄細形銅剣を持っていた人物が生きていた頃も、ここには田が広がっていたのでしょうか。

それとも今とは違い、この辺りまで海が入り込んでいたのでしょうか。


有柄細形銅剣を持てるほどの人物とは、どんな人だったのでしょう。

権力者だったのか。

祭祀を担う人物だったのか。

大陸との交流に関わる人物だったのか。


もちろん答えは分かりません。

しかし、そうやって想像する時間が楽しいのです。


現地に立つと、展示ケース越しに見るだけでは感じられないものがあります。


帰り道、日吉神社の前を通りました。

車を降りるまではしませんでしたが、

「おかげで案内板の存在が分かりました。ありがとうございました」

と、お礼を言いました。


もっとも、正直なところ分かりにく過ぎます(笑)

そこで私はGoogleマップ上に新しく「王屋敷遺跡」を登録しました。

今後訪れる古代史好きの皆さんには、ぜひそちらを目印にしていただければと思います😉


遺跡そのものは何もありません。

でも、何もない場所だからこそ想像力が広がる。

そんな遺跡探訪も悪くないと思うのです。




皆さんは「行って良かった遺跡」ってありますか?

もしおすすめの場所があれば、ぜひコメントで教えてください♪


【訪問先基本情報】

名称:王屋敷遺跡

所在地:山口県長門市油谷向津具下4053−1周辺

駐車場:なし

長門市の楊貴妃の里を訪問。軽い興味で立ち寄ったつもりが、想像以上に本格的な伝説と施設に驚きました。
向津具と大陸との関係についても考えさせられた現地レポートです。




長門市で開催されていた「向国の有柄細形銅剣」特別公開を見に行った際、せっかくなので周辺の気になる場所も巡ることになりました。

古代史仲間と地図を見ながら行き先を探していた時、ふと目に入ったのが「楊貴妃」の文字。

いやいや、まさか山口県に楊貴妃なんているわけないでしょう。

そんな半分冗談のような気持ちで旅程に組み込んだのが、今回訪れた「楊貴妃の里」です。

ところが実際に行ってみると、予想を大きく裏切られることになりました。

なぜ山口県に楊貴妃伝説があるのか


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​そもそも、楊貴妃って誰だっけ?
世界三大美女の一人だった気がするけど。


唐の皇帝、皇帝に寵愛された女性よ。
玄宗が楊貴妃を愛し過ぎたことが安史の乱を引き起こしたとか。
楊貴妃はその、安史の乱の際に亡くなったとされているわ。

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そんな人物が、なぜ山口県長門市の向津具に関係するのかというと、
向津具には、楊貴妃が日本へ逃れ、この地で亡くなったという伝説が残されているのです!


正直なところ、訪問前の私はかなり懐疑的でした。

義経がチンギス・ハンになったという伝説のように、
「有名人が実は生きていて海外へ逃げた」
という作り話はままあります。

その類だろうと思っていたのです。

しかし現地を見て回るうちに、その印象は少しずつ変わっていきました。

思った以上に本気だった楊貴妃の里


現地でまず目に飛び込んでくるのが、大きな楊貴妃像です。



しかも単なる観光用のモニュメントではありません。

説明によると、中国大使館をはじめとする関係者の協力を得て、四川省成都産の漢白玉を使用し、中国西安で制作されたものだそうです。



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​中国公認なんだ⁉️


この時点で、かなり本気度を感じました。

さらに周囲には中国風の建物が整備されており、日本にいながら少し異国へ来たような雰囲気があります。


今回の旅では一眼レフカメラを持って来忘れて、スマホで撮影してます。一眼で撮りたかった😭


二尊院と国指定重要文化財


現地で更に驚いたのが、二尊像の存在でした。



ここには楊貴妃を弔うための仏像が伝えられており、そのうちの二尊像は国指定重要文化財になっています。
(本堂には写真のみ。本物は宝物館に保管されています。)

まさか、重要文化財まで関わっているとは!!

残念ながら拝観には事前予約が必要で、今回は見ることができませんでした。
一団体3,000円からとのことです。

これは完全に予習不足でした。
また機会があれば、ぜひ予約して見学したいと思います。

江戸時代の文書に残る楊貴妃伝説



さて、では具体的にどのような楊貴妃伝説が残っているのでしょうか。
現地には、江戸時代の文献に残された伝承が書かれていました。


要約すると、


楊貴妃は756年に船で流れ着き、向津具で亡くなった。
玄宗皇帝は夢によってその死を知り、供養のため二尊仏と宝塔を送った。
後にその仏像は京都の清涼寺と二尊院に分けて安置された。
そして楊貴妃の墓と侍女の墓が築かれた。

という内容です。


↑楊貴妃の墓。摩尼車を回しながらお経を唱えました。


もちろん史実かどうかは分かりません。

しかし驚いたのは、単に
「楊貴妃が来たらしい」
という話ではなく、

漂着から供養、仏像の由来まで含めて物語があることでした。

これだけの伝承が存在していたというのは興味深いところです。

向津具と大陸は本当につながっていたのかもしれない


そして、現地で考えさせられたのが、向津具と大陸との距離感でした。

楊貴妃の墓の近くから海を眺めていると、
「意外と海の向こうは遠くないのかもしれない」
と思えてきます。



そういえば近くの角島には、中国から流れ着いた木像も展示されていました。

近年でも中国からの漂着物があるのですから、古代に人や物が海を越えて流れ着いたとしても不思議ではありません。

もちろん、楊貴妃本人が来たと断定はできません。

ただ、
「こんな辺境に中国の皇妃が来るわけがない」
と一笑に付すこともできない気がしました。

また、一緒に訪れた古代史仲間の言葉も印象に残っています。

「中国人が楊貴妃に生きていてほしくて『海外へ逃げた』と言うならまだ分かる。でも日本側にそういう伝説が残っているのなら…?」

伝説をそのまま信じるわけではありませんが、
その背景には、何かしらの大陸との交流があったのだろうと私は考えます。

歴史の真偽はさておき、「もしかしたら本当に来ていたかもしれない」と想像をさせてくれる場所こそ、現地を訪ねる醍醐味なのかもしれません。

皆さんは楊貴妃の日本渡来伝説をどう思いますか?

信じる派の方も、さすがにそれはない派の方も、ぜひコメントで教えてください♪


【訪問先基本情報】

名称:楊貴妃の里/真言宗 御室派 龍伏山 二尊院
所在地:山口県長門市油谷向津具下久津3539
アクセス:JR人丸駅からブルーライン交通バス大浦行きで35分、二尊院口下車徒歩5分
駐車場:あり

【今回の旅で使ったもの】

雨予報だったので、今回は雨対策をしっかりして出かけました☔

・雨が降りそうだったので レインシューズ
・雨が降りそうだったので 超薄型 軽量 和柄折り畳み傘
・古代風コーデ イヤーカフ
・古代風コーデ 勾玉ネックレス
・涼しく着られる サマーニット
・冷房対策にも便利な 薄手カーディガン