【序章】もうひとつの九州入り

 

『日本書紀』には、仲哀天皇と神功皇后が、熊鰐に導かれて遠賀郡側から九州へ入ったと記されています。

けれど、北部九州には、もうひとつ気になる道が残されています。

 

行橋市・京都郡方面から内陸へ向かい、山を越えて田川へ至る道。

その途中には、「仲哀峠」「仲哀トンネル」といった名が今も残っているのです。

 

 

今回の旅では、そうした地名と伝承をたどりながら、仲哀天皇の「もうひとつの九州入り」について考えてみたいと思います。

 

仲哀公園千本桜街道まつりの桜並木

【第一章】周防灘から豊前へ

 

九州へ入る道は、ひとつではありません。

 

景行天皇は、周芳の娑麼――

現在の山口県防府市佐波付近とされる場所から海を渡り、今の行橋市・京都郡辺りへ入ったと『日本書紀』に記されています。

 

そしてその行橋市や京都郡には、仲哀天皇が船でやって来たと伝わっています。

 

仲哀公園の鳥居と石垣

 

五社八幡神社

福岡県行橋市入覚1311

 

「昔仲哀帝筑紫の熊襲御征討の時、御舟企救郡曾根沖を御通行、京都郡新津港に御着、御上陸あり」(明治神社誌料 : 府県郷社 下

 

【第二章】長峡行宮推定地 ― 御所ヶ谷神籠石

 

行橋市と京都郡にまたがる山あいに、御所ヶ谷神籠石があります。

この周辺は、景行天皇の長峡行宮推定地とされる場所です。

 

御所ヶ谷神籠石の石積と木々

 

御所ヶ谷(ごしょがたに)神籠石(こうごいし)

福岡県行橋市大字津積・京都郡みやこ町勝山大久保

 

「御所ヶ谷」の「御所」は、景行天皇が御所を置いたことに由来するものです。

 

さらにこの地域の名前である「京都郡」という名前。

これもまた、景行天皇が長狹県に行宮を置き、「京(みやこ)」と呼ばれるようになったと『日本書紀』に記載されています。

 

「みやこ」と「御所」。

そうした名前が重なって残っていることは、やはり無視できないように思えます。

 

御所ヶ谷神籠石と仲哀天皇の伝承地

 

現在、「神籠石」は、白村江の戦い以降に築かれた古代山城とする説が有力です。

 

たしかに、山中に続く列石や土塁を見ると、防御施設としての性格を感じさせます。

その列石そのものが、景行天皇や仲哀天皇の時代にまで遡るかは分かっていません。

 

ただ、少なくとも言えることがあります。

それは、この場所が古代の人々にとって、重要な地点だったということです。

 

だからこそ、景行天皇の行宮伝承が残り、

さらに後の時代には、仲哀天皇の名を持つ地名が周囲に現れるのかもしれません。

 

【第三章】仲哀峠 

 

京都郡から田川方面へ向かう場所に、気になる名前があります。

 

仲哀トンネル入口、立入禁止フェンス

 

仲哀隧道と仲哀峠の歴史

 

「仲哀峠」「仲哀隧道」「仲哀トンネル」。

「仲哀天皇がここを通った」と伝わるため、このような名前となっています。

 

 

仲哀公園の桜と石碑

 

仲哀公園

福岡県京都郡みやこ町勝山松田

 

仲哀峠には「仲哀天皇平」と呼ばれる場所があります。

現在そこは、仲哀公園となっており、木のテーブルと椅子が静かに置かれています。

 

そして看板には、

「仲哀天皇がこの地を一時、都に定められた」と記されています。

 

仲哀天皇平の解説看板、九州入りの伝承

 

ただ、正直に言えば、最初に見た印象は「本当にここなのだろうか」というものでした。

 

広い平地があるわけでもなく、大規模な遺構が残っているわけでもない。

山の中にぽつりと記憶だけが残されているような場所です。

 

けれど、そこで気になったのが位置関係でした。

この仲哀平は、前章で見た御所ヶ谷神籠石――長峡行宮推定地から、それほど離れていないのです。

 

京都郡のいわれ、景行天皇の行宮伝承

 

もし、後世の伝承の中で場所の認識が少しずつ移り変わっていったのだとしたら。

 

本来は同じ地域を指していた記憶が、

「長峡行宮」と「仲哀平」という別々の形で残った可能性もあるのではないでしょうか。

 

古代の伝承地では、こうしたズレは珍しくありません。

 

宮そのものが残るのではなく、「この辺りだった」という土地の記憶だけが残る。

その結果、同じエピソードを持つ複数の伝承地が生まれることもあります。

 

そう考えると、仲哀平に残る「都」の記憶も、単なる後世の創作として片付けられない気がしてきます。

 

 

【終章】香春岳へ続く道

 

こうして地名と伝承をたどっていくと、ひとつの道が浮かび上がってきます。

 

周防灘から豊前へ入り、

長峡の地に宮を置き、

山を越えて田川へ向かう道。

 

仲哀天皇の九州入りルート地図

 

そして、その道の先には、さらに特別な山がそびえていました。

 

香春岳。

 

 次回は、その山について歩いてみたいと思います。

 

京都郡みやこ町と田川市の地図

夏羽と田油津姫、神夏磯媛の血を引く者  

第16話|香春岳の火

 
【あらすじ】

天皇は夏羽と田油津姫に導かれ、香春岳へと至り、山に満ちる人の営みと火の気配に触れる。
熊鷲たちが働く現場と、鉄や銅を生み出す炉の火を前に、この地が国を支える要となる可能性を理解する。
その力を取り込む決断を下す一方で、山に宿る火は、やがて人の欲と争いをも呼び起こす兆しを秘めていた。

――――――

【本文】

長峡《ながお》から峠を越えます。
道は険しく、馬の足取りも重くなっていきました。
しかし夏羽は慣れた様子で先を行き、振り返ることもなく進みます。

やがて――

「あれにございます」
その声に、足仲彦天皇《たらしなかつひこのすめらみこと》は顔を上げました。

視界の先に、山が現れます。
連なるように、三つ。
どこか異様な気配を放つ山々。

香春岳《かわらだけ》。

麓に近づくにつれ、空気が変わっていきました。
土の匂いに混じって、かすかに焦げた気配。

そして、音。

カン、カン、と硬いものを打つ響き。
低く唸るような風の音。
人の声。

「これは……」
天皇は、思わず呟きます。

山のあちこちで、煙が上がっていました。
黒く、重い煙。

その下では、人々が絶え間なく動いています。

岩を砕く者。
土を運ぶ者。
火を守る者。

その動きは粗野でありながら、どこか統率されていました。

「熊鷲《くまわし》にございます」

夏羽が、山の斜面へ視線を向けながら言いました。
その先では、男たちが大声で笑い合いながら、岩や木材を運んでおります。

肌は日に焼け、身体は岩のように太い。
山に生きる獣のような力強さがありました。

「南の熊襲《くまそ》が討たれた折、その一部がこの地へ流れて参りました」

夏羽は静かに続けます。

「現地の者と交わり、生き延びた者たちにございます」

天皇は黙って男達を見ます。
吉備の浦で皇軍の船を襲って来た者たちと、どこか似た空気がありました。

ひとりの男が大岩を抱え上げ、周囲から歓声が上がりました。
並の兵では、あの力には敵うまい。

「今は我らと共に、この地を支えております」

討たれ、生き延び、形を変えながらもなお残った者たち。
山と火の匂いを纏うその姿には、しぶとい生命力がありました。

「よく従うものだな」
天皇がそう言うと、夏羽はわずかに笑みを浮かべます。
「力で押さえつけるだけでは、山の民は動きませぬ」

そう言って、前を歩く田油津姫《たぶらつひめ》へ目を向けました。
「……妹がおるからこそにございます」

田油津姫が振り返りました。
「火を、お見せいたしましょう」
その声はやわらかく、どこか誘うようでもあります。

案内された先には、ひときわ大きな炉がありました。
その中で、火が燃えていました。
赤く、深く、絶え間なく。

炎は揺らぎながらも消えることなく、
まるで生き物のように息づいています。

その熱が、肌に触れました。

「この山では、銅や鉄となる石が採れます」

田油津姫が、静かに言います。
彼女の瞳に、炎が映り込みました。

「銅も、鉄も、国の発展には欠かせぬものにございます」

火が、ぱちりと音を立てました。
その瞬間、火の粉がふわりと舞い上がります。

天皇は、一歩近づきました。
熱が強まります。

この火があれば、剣が生まれる。
この火があれば、国が強くなる。

そして――
この火を握る者が、力を握る。

「見事だ」
天皇は、静かに言いました。
その声には、確かな評価が込められていました。

田油津姫は、わずかに微笑みます。
「恐れ入ります」
その仕草は従順に見えました。
しかし、その奥で何かが揺れていました。

炎と同じように。

「この山があれば、我らは、さらに大きくなれましょう」
夏羽が、言葉を継ぎます。
その声には、抑えきれぬ確信がありました。

足仲彦天皇は、しばしの沈黙の後、
やがて、静かに口を開きました。

「この火は、豊前《とよくにのみちのくち》だけのものでは済むまい。これより先の国を支えることになろう」

火は、絶えることなく燃え続けていました。

人の手によって。
そして、人の欲とともに。

――――――
 
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回、第17話「山門の女王、田油津姫」では、

熊鷲を従える田油津姫は、筑紫島を治めるには“女王の力”が必要だと足仲彦天皇へ語ります。

5月26日(火)21時公開予定。
どうぞお楽しみに。




【序章】記されなかった血筋


歴史には、はっきり書かれていることがあります。

そしてそれ以上に、「書かれていないこと」もあります。


今回気になったのは、神夏磯媛、夏羽、そして田油津媛をつなぐ系譜でした。


日本書紀には書かれていない。

けれど、地方には確かに残されている事柄があります。


今回は、神夏磯媛から田油津媛へ続く伝承を追いながら、

「記されなかった系譜」について考えてみたいと思います。


【第一章】景行天皇と神夏磯媛


日本書紀に記される神夏磯媛は、非常に印象的な人物です。


九州へ赴いた景行天皇が、最初に出会います。

彼女は景行天皇に、自身に背く気持ちはないが、鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折に反抗心があるので討伐して欲しいと言います。

景行天皇は彼女の言葉に従って兵を動かし、土蜘蛛の鼻垂鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折を討伐します。


九州へ赴いた景行天皇に対し、彼女は土蜘蛛・鼻垂について語り、その討伐を勧めます。

景行天皇はその言葉に従って軍を動かし、鼻垂を討ちました。


そのおかげで神夏磯媛は、安心してその地を治めることが出来る状況になりました。




ここで気になるのは、景行天皇の態度です。


地方豪族に命じて賊を討伐させるのではなく、地方豪族の進言に従って天皇軍が賊を討伐しています。

神夏磯媛が、討伐する為の知恵を貸したとか、討伐の手助けをしたという様子もありません。

ただ、「急いでこれを撃つことを願います」と言っただけです。

ただ、景行天皇が神夏磯媛の願いをきいてやっただけです。


もちろん、神夏磯媛が有力な在地勢力であり、その協力を得る為に景行天皇が力を尽くしたという、ただそれだけの可能性はあります。


しかし、神夏磯媛は女性です。

景行天皇がそれだけのことをした女性相手に、子作りを求めないことがあるでしょうか。




というのも、日本書紀には、景行天皇が九州各地で多くの女性との間に子をもうけたことが記されているからです。


その数は、名の記されていない者まで含めれば八十人。


景行天皇は、一部の子供を除いた七十数名の子供達を各地の重役に任じたと記されています。


そうであるなら――


神夏磯媛との間に子をもうけ、その子にその地を治めさせていたとしても、不思議ではありません。


【第二章】田川に残る系譜


福岡県田川市夏吉。

そこにある若八幡神社には、夏羽と田油津媛は、神夏磯媛の子孫であると伝えられています。



しかし、この系譜は日本書紀には見えません。



若八幡神社

福岡県田川市夏吉1636



日本書紀に登場する田油津媛は、山門の豪族として描かれています。

現在の地理で見ると、山門は筑後地方であり、田川とは距離があります。


けれど、地方伝承の中では、神夏磯媛と夏羽は豊前の地に結びつけられているのです。




ここで気になるのが、景行天皇の地方支配のあり方です。


前章でも述べたように、景行天皇は各地の女性との間に多くの子をもうけ、その血族を地方に配置したとされています。


そして、山門の地に残る伝承では、景行天皇の時代に葛築目という人物がおり、討伐されたという話があります。


つまりこの地域は、景行天皇の勢力が平定した土地だったことが考えられます。


景行天皇が平定した土地だとすると、当然、景行天皇は自分の子供にその地を治めさせようとしたでしょう。


もし、神夏磯媛と景行天皇の間に血縁が存在したとすれば、

その子孫がこの地を治めていたとしても、不思議ではありません。


【第三章】皇后に仕えた田油津媛


また、夏吉の若八幡神社には、夏羽と田油津媛に関する、気になる記述があります。


それは、夏羽が妹の田油津媛を、神功皇后の侍従として仕えさせたという話です。

そして、その隙を見て皇后を弑そうとした――とも伝えられています。


この話でまず気になるのは、「暗殺計画」そのものではありません。

むしろ重要なのは、田油津媛が皇后の近くに仕えることのできる立場にいた、という点です。




古代において、有力な地方豪族の娘が朝廷に仕えること自体は、不自然なことではありません。

しかし、田油津媛は、日本書紀の中では「土蜘蛛」とされる側の人物です。


土蜘蛛とは、単なる部族名ではなく、朝廷に従わない地方勢力に対して用いられた蔑称でした。

時に「討つべき存在」として描かれる者たちです。


そのように記された人物が、皇后の侍従として仕えていた。

これは少し奇妙にも見えます。


少なくとも当初は、朝廷側から危険視されていなかった。

そして、一定の地位や格式を認められていたからこそ、皇后の近くに仕えることができたのではないでしょうか。


【終章】なぜ書かれなかったのか


田油津媛は、単なる反逆者だったのでしょうか。


もし彼女が景行天皇の血を引く存在であったなら。

それは、神功皇后よりも王統につながる可能性を意味します。




ここに書いたことが真実とは限りません。


ただ、仮にそう考えると、日本書紀に残されたものと、消された理由が見えてくる気がして、私はそれを小説にしました。


▶ 夏羽と田油津媛の登場

小説「神功皇后 ― 海を越える巫女王 ―」はこちら


夏羽と田油津姫、神夏磯媛の血を引く者

第15話|神夏磯媛の裔

 
【あらすじ】
 
足仲彦天皇は、神夏磯媛の血を引く夏羽に導かれ、豊前国の長峡行宮へと至る。
かつて大足彦天皇が討伐と統治によって築いたこの地の歴史と、その血を継ぐ一族の存在が語られる。
さらに田油津姫も加わり、一行はこの地を支える山へと案内されることになる。
 
――――――
 
【本文】
 
穴門の豊浦宮に、息長帯姫《おきながたらしひめ》は留まっていました。
 
穏やかな海の光の向こう――
その心は、すでに西へと向いています。
 
 
足仲彦天皇《たらしなかつひこのすめらみこと》は、迎えに来た男とともに、船で筑紫へと向かいました。
 
男の名は、夏羽《なつは》。
 
足仲彦天皇の祖父であり先々代の天皇である、大足彦天皇《おおたらしひこのすめらみこちと》。
そして、その大足彦天皇をこの地へ導いた女、神夏磯媛《かんなつそひめ》。
彼らの血を引く者です。
 
 
かつて大足彦天皇が筑紫へ至った折、豊前《とよくにのみちのくち》は荒れていました。
 
この地は土蜘蛛の国。
 
すべてが天皇に背いたわけではありませんが、
鼻垂《はなたり》、耳垂《みみたり》、麻剥《あさはぎ》、土折猪折《つちおりいおり》らは、
人々に狼藉を働き、ヤマト王権に反抗していました。
 
その中で、周防灘を拠点としていた神夏磯媛は、
この乱れを憂えていました。
 
折しも、大足彦天皇が周防に至ります。
 
神夏磯媛はこれを機とし、天皇と力を合わせ、
鼻垂ら四人の首長を討ちました。
 
山を頼みとした者たちは倒れ、
やがて、この地は一つに束ねられます。
 
土蜘蛛の長として立ったのは、神夏磯媛。
 
さらに彼女は、大足彦天皇との間に子を成しました。
 
 
「我らは、その末であることを誇りに思っています」
夏羽は、静かに言いました。
 
今、豊前国を預かるのは、彼です。
その姿には、山と土の気配が宿っていました。
 
 
船は進み、海を渡り、やがて一行は、豊前の地へと入りました。
 
見えてきたのは、長峡宮《ながおのみや》。
大足彦天皇が築いた都が、そこにありました。
足仲彦天皇らは、しばらくそこに滞在することにしました。
 
足仲彦天皇が腰を落ち着けた時、
ひとりの女が姿を現しました。
 
「お待ちしておりました」
 
朗らかな声。
しかしその奥には、静かに光るものが潜んでいます。
 
田油津姫《たぶらつひめ》。
夏羽の妹にして、同じく大足彦天皇と神夏磯媛の系を継ぐ者。
 
「よく参られました、大王《おおきみ》」
 
ゆるやかに頭を下げる仕草は美しく、隙がありません。
その一挙手一投足が、すでに計られているかのようでした。
 
「こちらでゆっくりされて下さい。ここまでの疲れが癒えてから、さらに先に」
夏羽が、静かに言います。
 
田油津姫も、微笑みを崩さぬまま続けました。
「大王にぜひ見て頂きたいものがございます」
 
風が、わずかに変わります。
海の匂いから、土へ。
そして、かすかな火の気配へ。
 
まだ見ぬ何かが、確かにそこにありました。
 
天皇は、先を見据えます。
「明日出発する。案内せよ」
 
静かな声。
しかし、揺るぎのない重みがありました。
 
夏羽と田油津姫は、深く頭を下げます。
 
二人の胸の内には、同じ思いがありました。
 
――この地をもって、次へ。
 
その行く末を、まだ誰も知りませんでした。
 
――――――
 
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回、第16話「香春岳の火」では
 
足仲彦天皇は香春岳にて、鉄を生み出す火と熊鷲の働きを目の当たりにし、この地が国の力となることを確信します。
 
5月19日(火)21時公開予定。
どうぞお楽しみに。
神功皇后:海を越える巫女王
 

第14話|豊浦の如意珠、凪の約束

 
【あらすじ】
 
豊浦津に到着した帯姫は、天皇とすぐには会えぬまま、不吉な予感に心を揺らしていた。
海に潜って得た不思議な珠は、「今すぐではない」というわずかな猶予だけを彼女に伝える。
やがて再会を果たす二人――穏やかなひとときの裏で、避けられぬ運命が静かに近づいていた。
 
――――――
 
【本文】
 
足仲彦天皇《たらしなかつひこのすめらみこと》より、ひと月あまり遅れた七月五日。息長帯姫《おきながたらしひめ》は、ようやく豊浦津へと至りました。
 
しかし、天皇はすでにこの港を発ち、さらに先へと進まれているとのこと。すぐに合流することは叶わず、一行はやむなく豊浦津に逗留することとなったのです。
 
潮の香り満ちる夕刻、帯姫は静かな浜辺に立っていました。
 
胸の内には、二つの思いが渦巻いています。
 
――一刻も早く、お会いしたい。
 
けれど同時に、
 
――お会いすれば、また“あれ”を見てしまうのではないか。
 
その不安の方が、今はなお強く心を占めていました。
 
「でも、先日のことは回避できたではありませんか」
 
隣より、穏やかな声がかけられます。豊姫です。
 
「徳勒津宮《ところつのみや》にてご覧になった、吉備の浦のこと……あれはもう、起こらなかったのでしょう?」
 
「それは……そうだけど……」
 
帯姫は、言葉を濁しました。確かにあのときの幻視は現実とはなりませんでした。けれど、それが本当に“終わった”のか、それとも“別の形で訪れる”のか――その確信を持つことができずにいたのです。
 
「それほど恐ろしいのであれば」
 
今度は長媛が、わずかにいたずらめいた眼差しを向けて言いました。
 
「お会いになる前に、占ってみてはいかがですか」
 
「占う……?」
 
「ええ。誓約にございます。海に潜り、珠を得られれば吉。しかも、美しき珠であれば――一生安泰、という趣向にて」
 
帯姫は一瞬ためらいました。けれど、ただ恐れているばかりでは、前へは進めません。
 
「……分かりました。やってみましょう」
 
その決意は、静かに固まっていきました。
 
帯姫は衣を整え、ゆるやかに海へと足を踏み入れます。水は思いのほか冷たく、それでいて不思議と心を澄ませるものでした。
 
深く、さらに深く。
 
光の届くぎりぎりのところにて、帯姫は海底を見渡します。
 
真珠を含む貝を探す――はずでした。けれど、視界の片隅に、異なる光が揺らぎました。
 
それは、砂の中に半ば埋もれた、小さな玉。
 
帯姫は手を伸ばし、それを拾い上げます。
 
水面へと戻り、息を整えてから、手の内を見つめました。
 
「……これは……」
 
それは真珠ではありませんでした。
 
透き通るような輝きを宿しながら、どこか整いすぎている。自然に生まれたものとは思えぬ、滑らかな球体。
 
――まるで、人の手によって磨かれたかのように見えました。
 
「これで……よいのでしょうか……」
 
帯姫は、戸惑いを隠せません。
 
そのとき、葉山媛が一歩進み出て、帯姫の手に重ねるようにして玉を包み、静かに微笑みました。
 
「それでよろしいのです」
 
「え……?」
 
「それはきっと、平和を願われるあなた様の御心に応えた珠にございます。海が、あなた様に託したのでございましょう」
 
その言葉は、不思議と胸にすっと落ちました。
 
「……そうですね」
 
帯姫は、小さく頷きます。
 
不安が消えたわけではありません。けれど、それを否むよりも、受け入れる方が、今は正しいように思えたのです。
 
やがて四人は顔を見合わせ、ふっと笑みを交わしました。
 
そのとき――
 
「姫様方、そろそろお戻りくだされ」
 
襲津彦の声が、少し離れたところより届きます。
 
「屋敷の支度が整いましたゆえ」
 
「分かりました。すぐ参ります」
 
豊姫が応じ、三人はくるりと背を向けて歩き出しました。
 
帯姫もまた、それに続こうといたしました――が、その一瞬。
 
手の中の珠が、かすかに脈打つように感じられたのです。
 
言葉ではない、けれど確かに伝わる感覚。
 
――まだ、時はある。
 
帯姫は息をのみました。
 
それがどれほどの長さなのかは分かりません。
けれど、今すぐではない。
 
限られた時が、静かに差し出されている。
 
(……まだ、大丈夫)
 
胸の奥に、わずかな安堵が広がりました。
 
「姉上?」
 
振り返った豊姫の声に、帯姫ははっと我に返ります。
 
「ええ、すぐ参ります」
 
そう答え、帯姫は珠をそっと握りしめました。
 
その光は、夕闇の中にあっても、やわらかく確かに輝いています。
 
   *
 
翌朝。
 
海は穏やかに凪ぎ、まるで何事もなかったかのように静まり返っていました。
 
帯姫は屋敷の庭先に立ち、遠くの道を見つめています。
 
――本日こそ、お会いできる。
 
そう聞いてはおりましたが、胸の奥は不思議なほど落ち着かず、わずかに指先の冷えを感じていました。
 
やがて、従者の一人が駆け寄ってきます。
 
「大王《おおきみ》がお見えになります」
 
その一言に、胸が大きく打ちました。
 
帯姫は思わず姿勢を正し、深く息を整えます。
 
ほどなくして、数名の家臣を伴い、足仲彦天皇が庭へと入ってきました。
 
そのお姿を目にした瞬間――帯姫の胸にあった不安は、ふっとほどけていきます。
 
言葉が、すぐには出てきません。
 
天皇もまた、足を止め、帯姫を見つめます。
 
ほんのわずかな沈黙。
 
けれどそれは気まずさではなく、どこかくすぐったく、照れを含んだものでした。
 
「……無事であったか」
 
先に口を開かれたのは、天皇でした。
 
「はい。大王も、ご息災にて」
 
帯姫はようやく言葉を返します。
 
互いに、ほんの少しだけ微笑みました。
 
それだけで、長く離れていた時が、静かに埋まっていくようでした。
 
「道中、難儀はなかったか」
 
「皆に助けられましたゆえ、つつがなく参ることができました」
 
「そうか……それは良かった」
 
会話は短く、どこかぎこちないながらも、不思議と温もりに満ちています。
 
あの不吉な気配も、胸を締めつけるような影も、何一つ感じられません。
 
ただ、穏やかな空気だけが、そこにありました。
 
(……まだ、時はある)
 
昨夜の感覚が、ふと胸をよぎります。
 
帯姫は、そっと息をつきました。
 
「これよりは、同じところにて過ごせよう」
 
天皇が、やや照れたように言われます。
 
「はい……」
 
帯姫もまた、わずかに視線を伏せながら頷きました。
 
その頬には、ほのかな紅が差しております。
 
再び顔を上げたとき、二人の視線が重なりました。
 
今度は先ほどよりも自然に、柔らかな笑みがこぼれます。
 
ようやく――同じ時を、同じ場所にて過ごすことができる。
 
そのささやかな喜びが、言葉にせずとも、確かにそこにありました。
 
帯姫の手の中にある珠は、静かに光を宿しております。
 
まるで、このひとときが限られたものであることを、
そっと知っているかのように。
 
――――――
 
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回、第15話「神夏磯媛の裔」では
 
神夏磯媛の血を継ぐ兄妹と対面した足仲彦天皇は、豊前の地に受け継がれる力と野心の気配に触れます。
 
5月12日(火)21時公開予定。
どうぞお楽しみに。