ゆめネットみえ通信

一人一人の存在の重みー善野烺『旅の序章』再論

―中上健次と徳田秋声（９）―

　新聞連載小説『鳳仙花』が出版された翌年（１９８１年）、野間宏との対談のなかで中上健次は「僕は、あなたがいいことをやっていると思うのは、『部落解放』という雑誌の文学賞の選考委員をやっておられるでしょう。あの文学賞は面白いですね。僕はいつも欠かさずに読むんですけどね。なんであんなに面白いんですか。記録とか詩とかいうのは、心がおののいている人が書いているという、プロの作家たちが忘れているようなものが言葉にあるんですよ。」（「作家と責任」『文芸』第２０巻第１１号、１９８１年１０月。前掲『中上健次発言集成１』収録、１４１頁）と語っています。

　中上の発言にある「『部落解放』という雑誌の文学賞」とは、狭山差別裁判糾弾闘争などで部落解放運動が高揚期を迎えていた１９７４年の３月に創設された「部落解放文学賞」のことで、中上は「あそこは文学の宝庫」（１４２頁）と述べ、「被差別部落という、つまり世間では、そんなにほめられたという形じゃないが、こと文学や芸能の世界では光輝くというもので、さらに本音を言おうじゃないみたいな、そういう形だから余計に迫力があるし、面白いんだね。あれはだけど、文学者だったら絶対に顕彰しなくちゃ。『文学』という制度をゆさぶるものとして、大きな力を発揮しますね。」（同上、１４３頁）と語っています。

「部落解放文学賞」の作品が「文学の宝庫」であり、「『文学』という制度をゆさぶるものとして、大きな力を発揮」する可能性があるのは、差別問題をとおして、一人一人の存在の重みと社会のあり方を問うことを主題としているからだと思います。これまで連載してきた「中上健次と徳田秋声」の最後は、その「部落解放文学賞」の小説部門の選者で、２０２０年９月２７日のブログ「人間への柔らかな視線」で取りあげた善野烺さんの『旅の序章』（解放出版社、２０２０年７月）に収録されている作品から、いくつか紹介してみたいと思います。

徳田秋声、中上健次から解放文学へ

　現在の解放文学を代表する作家である善野さんは、１９５７年に神戸市で生まれ、高校、大学時代に部落解放運動にかかわり、卒業後、会社員、アルバイトなどを経て、１９８５年に神戸市内の私立学校教員となり、２０１６年に退職しています。農村地域に存在する被差別部落（以下、部落と略します）に生まれ育ったことと共に、このような善野さんの人生体験がどの作品にも色濃くにじみでています。

　まず、善野さんが作家としての姿勢や作風を確立する上で重要な意味を持つと私が考えている作品「年暮記」（『革』第７号、１９８６年７月。前掲『旅の序章』収録）を紹介します。

埼玉県の女性との結婚までの経緯を描いた「年暮記」では、現在も根強く存在している結婚差別の問題が取り上げられています。女子高の非常勤講師と定時制の仕事をかけもちしている部落出身の主人公・信夫は、神戸で知り合い、その後遠距離恋愛を続けていた易子を「紹介してくれた人が信夫と同じ立場の人であったため」に「何となく自分と同じ立場の人だと考えていた」。ふたりの結婚は、易子の兄から激しく反対されます。こうした葛藤のなかでつぶやかれる次のような信夫の言葉に、この作品に込められた善野さんの意図が感じられるように思います。

　　「１１月１１日に会ったとき、易子に『あなたは、物足りないところがある』と言われてから信夫はそれがずっと気にかかっていた。いつか信夫は易子の兄と会って易子のことで罵り合うか、ひどく殴られなければならないだろう、と考えていた。『おれは一生懸命、ぎりぎりのところで生きていない。生きてこなかった』それが、易子にそう思わせたのだと思った。そして易子と一緒ならどこに行っても暮らせるはずだ、と考えだした。何もかも捨てて・・・。そう思うと何か切ないが、大きくなる自分を感じた。」（同書、６７―６８頁）

ある座談会で結婚差別の問題について、善野さんは「結婚するかどうかのとき、やっぱり一番、差別意識に限らないのだけども、それをめぐって、お互いの人間性が出てくると思う。これは、われわれ差別受けた被害者だというのじゃなくって、われわれがどういうふうな生き方をして相手を幸せにしようという、ものを持ってるのかどうかも試されるし、相手は人物を見て、まあ同和だけど、この人をみたときに、結婚するのかどうか、むこうも人間性を問われますね。」（「合評記録・玉田崇二「街煙」をめぐって　部落をテーマに小説を書く」『革』第２４号、２０１３年１０月）と発言しています。

差別問題とは、差別する側、差別される側のいずれにとっても、人間性や生き方を試されるという善野さんの考えは、「年暮記」で描かれたような体験を通して見出されたものと思われますが、「年暮記」はそのことを作品の中で表現しようとしたものといえるでしょう。しかも、この結婚差別の問題とともに、性生活も隠さずに、普通で弱い人間である主人公が見、感じたことが「あるがまま」に表現されています。こうして善野さんは、「秋声の自然主義」に通ずる自らの作風を見出し、これ以降、この「年暮記」の延長線上に作品は書かれることになっていきます。

　最大深度７の大地震が善野さんの住む神戸市などを襲った１９９５年の阪神大震から４年後、善野さんは「師走の記」（『新日本文学』６０１号、１９９９年４月。前掲『旅の序章』収録）という作品を発表します。「師走の記」は、時間的には先の「年暮記」の後に位置する作品で、主人公の時本和夫は教員で、埼玉県出身の幸子と結婚して、神戸に住んでいます。二人は豊中市内の空調会社に勤めていた幸子の叔父小池信吉の急死の報を受けて阿倍野にある病院の霊安室を訪ねます。そこで信吉の会社の社長や同僚と会い、そこへ埼玉から幸子の母・兄や親戚も霊安室に駆けつけてきます。その後、物語は、信吉が入っている宗教団体の会館での通夜、翌日の信吉のアパートでの遺品整理、堺市の斎場での荼毘の様子が描かれていきます。

作品ではそのような中での在日朝鮮人に対する差別、「不穏」とレッテルを貼られている地区への差別など、民衆の中に存在している差別の問題に触れられていますが、それ以上に印象に残るのは、信吉の遺品整理の時に描かれているような、ごく平凡に生きている人たちの人生に対する主人公・和夫の共感です。そして、このような共感は、結婚の時に反対した妻の兄にも向けられます。そこには、一人一人の存在の重みをあるがままに肯定しようとする善野さんの視線が感じとれ、「年暮記」から１２年後の善野さんの確かな成長が示されています。

　この善野さんの人間に対する態度は、「師走の記」の次に発表された「陽炎の向うから」（『革』第２１号、２００２年１０月。前掲『旅の序章』収録）で、さらに明確に表現されています。作品の主人公は、神戸の部落出身で、私立の女子高の教師をしている時本で、物語は加藤という高校以来の友人からの電話で始まります。加藤は、高校で「部落問題研究部」に入っていた時本がクラスのホームルームで「部落民宣言」をした時に共感し、勇気づける発言した人物で、その後、大学を中退して行ったアメリカで人種差別を経験しています。加

藤の要件は、阪神大震災後に被災した「在日外国人支援ボランティア」の活動をしていた時に拾った見知らぬ男性が落とした手帳を時本に渡すことでした。その手帳には、恋愛相手であった部落出身の女性との結婚差別の問題やそれを乗り越えようとしたところで女性が阪神大震災で死亡したこと、自分も女性の後を追って入水自殺をしようとしていることが記されていました。

男性の入水自殺を確認した時本は、その手帳を母親に返そうと、所在を知るために女性の関係者と思われる高校時代の知人の岸田という女性と会います。高校の時に時本の「部落問題研究部」への加入の誘いを「貧乏比べをしているみたいで嫌だ」と断ったことがある岸田は、その女性とは又従妹にあたり、自らも結婚差別を受けていました。岸田は時本に「どっちの親にしても辛さを忘れようと思てる」のだから、高校の時に「部落問題をテーマにした小説を書く」「文学は弱い者の味方」と言っていた時田が手帳を保管することを勧め、時田は「若い女性が、越えなくてはならない壁があるのよ、と恋人に言わなくもよいような世の中になるまでは・・・」と一生大事に保管することを決意し、作品は終わります。

　このように、「陽炎の向うから」は、根強く存在し続けている結婚差別と阪神大震災の二重の「悲劇」を取り扱っていますが、困難な状況に置かれた人たちの痛みや思いに対する時本、加藤、岸田の想像力や共感、時本と加藤、時本と岸田との水平的な関係が描かれていることにより、そうした困難を乗り越えるために必要とするものが作品から浮かびあがってきます。

　こうした作中人物の人生と日常生活を誇張せずに描くことをとおして差別問題などの時代の突きつける課題を浮かび上がらせるという善野さんの作風は、「文学として直接に取り組むのは人生であって、社会とか政治というものは、人生をとおして浮かび上がってくるものにして、はじめてそれが文学の上に生きて来るのではないかと考えるのだ。」（徳田秋声「文学の精神」『徳田秋聲全集』第２２巻、八木書店、１９９―２００頁）と語った「秋声リアリズム」の精神を確実に受け継ぐものといえるでしょう。

　今日、深刻化するコロナ禍の下で、連日、「新規感染者数、重症患者数、死亡者数」等々、人間の存在が測定可能な数値として報道され、一方で、「清潔空間」に閉じこもる「新しい生活様式」も叫ばれています。こうした中で、他者や外部に対する不感症がますます進んでいくことが予測されますが、差別問題をとおして一人一人の存在の重みを凝視する解放文学は、このような時代を生きる精神の糧となることは間違いないと信じています。