島崎藤村「『破戒』をめぐる諸問題」(第2回)

 【この記事の概要】 現在、私は、1977年10月に部落差別の問題を正面から取り上げることをテーマとして創刊された文芸雑誌『革』(当初の編集委員は野間宏、井上光晴、竹内泰宏、土方鐵、杉浦明平、川元祥一など)に、2020年9月から「解放文学の軌跡」という評論を連載しています。この評論は、部落差別の問題を追及して、日本と日本人を、その深部から捉えようとした近現代の文学作品を批評したもので、2024年3月発行予定の『革』第40号には「解放文学の軌跡(第8回)」の「野間宏と被差別部落―『青年の環』を中心に」が掲載されています。これまで紹介してきたブログの記事の多くは、この連載の下書きとして書いたもので、今後は、『革』連載の批評をブログで公開していく予定です。今回は「解放文学の軌跡」の第5回にあたる島崎藤村「『破戒』をめぐる諸問題」(『革』第37号、2022年9月)の第2回目です。この評論の引用・転載は自由ですが、必ず出典を明記してください。

 なお、文芸誌『革』は、現在では部落差別のみならず、性的マイノリティ、災害避難民等々、さまざまな社会的排除の対象となっている人々や日本社会の差別構造等の問題を、小説、ルポルタージュ、評論、詩、俳句で表現した作品を掲載しています。申込先は「〒651―2202 神戸市西区押部谷町西盛584―1 『革の会』事務局 善野烺」です。

 

第一章   『破戒』に対する共感と反感

部落の側の受けとめ方

 藤村の『破戒』は、部落の人たちにどのように受けとめられたのであろうか。ここではよく知られた三つの文章を引用して、『破戒』がはらむ矛盾や問題点について、私が考えていることを明確化したいと思う。

 

(1)諸君の殆どの人が私と同じように、嘗て、島崎藤村氏の『破戒』を涙を流しつゝ読まれたことがあると思ふ。この作品は、申す迄もなく部落問題を取扱ひ、しかも解放的思想と理解に充ちあふれたものである。しかも単にそれ許りでなく、明治文学史上にも画期的意義を有する不朽の作品であり、貴重なる芸術品である。・・・

(部落問題研究所編・刊『水平運動史の研究』第4巻資料篇下、1972年、247

 頁)

 

(2)H君――

 あなたは小説『破戒』の芸術的価値を高く評価しておられましたけれど、私たち芸術の門外漢にとっては、小説『破戒』はむしろ存在してくれない方がよの(ママ)です。私は小説『破戒』を書斎から店頭から掘りだしてきて、一束にして焚書の刑に処したいとさえ考え勝ちです。・・・

・・・藤村はすべての部落民の苦しんだ苦しみを描こうとしたのではなくて、ようやく自我を自覚し始めた当時の一人のインテリゲンチャ―を部落という特殊の世界に置いてみて、その精神の展開を試みたまでに過ぎなかったのではないでしょうか。・・・

 芸術評価の問題は別として、小説『破戒』を貫いている藤村の差別観は、主人公丑松に決定的に顕われてきます。被圧迫階級としての自己を意識しえない丑松は、自己の悲劇を、社会、経済関係に見ることができないで、結局自らを蔑すむ卑屈の世界から飛躍することができないままに、日本を離れて、束縛のないテキサスに逃れることになります。丑松は自己満足によって新しい生を肯定することができたとしても(観念的に)、一体千人の丑松はどうなるのでしょうか。そして、その数三百万といわれる被圧迫部落身は―

(『部落解放への三十年』近代思想社、1948年、183―186頁)

 

(3)『破戒』は明治39年に出版されたが、この辺の人はずっと後になってから『破戒』のことを知ったな。こういう純文学は格調が高いからわしらの生活には縁がない。文字や文学に親しむちゅうこと少ないもんでな。藤村は『破戒』を書くにあたって、何回か荒堀に来ていたそうだが、書いてしまったら一ぺんも足を向けたことがない。部落調査にくる学生さんみたいなもんで。こういう衆には腹が立つ。

 わしは若い頃、『破戒』を読んで、藤村のことをかたきのように思ったさ。ざっくばらんに〈橋むこう〉なんて、書かなくたってよいじゃあないか。われわれを踏み台にして名をなし、いい生活をしていやなやつだと思ったね。部落ではえらい関心を持つもんはいませんな。その後、この小説から部落のことがはやって、小諸の懐古園に来た人に〈橋むこうはどごだ〉とたずねられたことが何度もあった。わしは癪にさわったので、ぜんぜんそっぽの方を教えてやったもんだ。・・・

(『被差別部落の伝承と生活 信州の部落古老聞き書き』三一書房、19

72年、84頁)

 

井元麟之の場合

 第一の文章は、1938年の全国水平社第15回大会で、当時絶版となっていた「『破戒』の再版支持」のための緊急動議が総本部によって提出された際の書記長・井元麟之の説明である。この緊急動議は、藤村から全水本部に宛てた「此のたび、『藤村全集』の定本版の発行に当りぜひ『破戒』もその中に入れたい念望であるが万一同書のうち時代に適せぬ言葉があるのは訂正したいと思ふ。大会に於て各地代表の方の意向も聞き相談して戴けないだらうか」という「親書」に応えたもので、再版における「詳細な具体的方法を総本部に一任としたい」ということを付け加えて、「満場一致可決」された(3)。

 このような全国水平社の「『破戒』の再版支持」の背景には、1937年7月に起きた盧溝橋事件をきっかけとした日中戦争の全面化に対応するための「『挙国一致』に「積極的に参加せねばならぬ」という水平社の「非常時に於ける運動方針」(1937年9月)があり(4)、そのために、水平社側と藤村・出版社と協議を経て再版された『破戒』においては、総力戦遂行に際して障害となる恐れがあると判断された部落に対する人種主義的な記述は、他のことばに言い換えられたり、削除されたりするなどして、除去されることになった(5)。

 したがって、井元の発言には多分に政治的な意味合いが含まれていることも考慮に入れる必要があるが、「諸君の殆どの人が私と同じように、嘗て、島崎藤村氏の『破戒』を涙を流しつゝ読まれたことがあると思ふ。」という発言は井元自身の体験にもとづくものであった。井元は高等小学校二年の時に書いた「煩悶」という題の作文について、次のように語る(6)。

 

   「煩悶」という漢字をね、覚えたんですよ。で、「煩悶」という題で作文を書

  きましてね。自分がよそへ行った場合には、自分の部落の住所を言ってはならな

  い、自分のところを隠して近所の町名を言わなければならないとおじたちに言わ

  れている。自分たちの町は福岡市に合併して立派な町名があるのに、どうしてい

  けないのだろうか。それは私が、えたの子孫だからだろうか。それを何故隠さな

  ければならないのだろうか。それが私の「煩悶」だ、というような文章を書いた

  のです。僕の作文は、よく先生がモデルケースとして皆の前で読むんですよ。だ

  から、添え書きをして「これは決して皆の前で読まないで下さい」と出しまし

  た。

 

 『破戒』で丑松は「世に出て身を立てる穢多の子の秘訣」として「たとえいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅おうと決してそれとは自白けるな」と父親に命じられるが、井元が語っているように、それは丑松だけのことではなかったのだった。このような「えたの子孫だから」という「血筋」を理由にされて「社会から捨てられる」という当時の状況については、勝野文平と校長との丑松の出自に関する噂話の中でも語られている。

 

   「だって、校長先生、人の一生の名誉に関わるようなことを、そう迂闊には喋 

  舌れないじゃ有りませんか。」

   「ホウ、一生の名誉に?」

   「まあ、私の聞いたのが事実だとして、それがこの町へ知れ渡ったら、恐らく

   瀬川君は学校に居られなくなるでしょう。学校に居られないばかりじゃ無い、

  あるいは社会から放逐されて、二度と世に立つことが出来なくなるかもしれませ

  ん。」

   「へえ―学校にも居られなくなる、社会からも放逐される、と言えば君、非常

  なことだ。それではまるで死刑を宣告されるも同じだ」(234―235頁)

 

 このように、『破戒』は差別の苛酷な現実と「身元」をあばかれる丑松の不安、恐怖、おびえ、絶望を見事に表現しており、それゆえに丑松と共通の体験を持っていたであろう「諸君の殆どの人が私と同じように、嘗て、島崎藤村氏の『破戒』を涙を流しつゝ読まれた」のであった。

 しかし、後に詳しく触れるように、「彼自身のなかにも抜きがたい差別観のあること」(7)が指摘されている藤村が、部落民に対する内在的な理解を通して、このような部落民の葛藤を描くことができたとは考えにくい。野間宏は「今日『破戒』の丑松が部落民としての肉体を持っていないし、心理も持っていないと評価されてきているが、この点から考えても丑松は部落民出身の丑松というよりも、むしろ藤村が自分の内面を託すために作りあげられた人物にすぎないとさえいうこができるのである。」(8)と述べているが、とするならば、身元があばかれることに対する不安、恐怖、おびえ、絶望という丑松の感情は、実地の見聞をこえた藤村自身の体験にもとづくものであったと考えられるのではないだろうか。その意味で、『破戒』を読み解く上で、藤村の生涯との関連を抜きにすることはできないだろう。

 

朝田善之助の場合

 第二の文章は、松本治一郎・部落解放全国委員会の名前で出された『部落解放への三十年』の中に収録されている「製作者H君への公開状」(以下、「公開状」と略す)である。この「公開状」は、『破戒』の映画化の計画を進めていた東宝のプロデューサー筈見恒夫(「公開状」の「H君」)に意見を求められた部落解放全国委員会常任中央委員(当時)の朝田善之助が手紙の形で筈見に送ったもので、実際に朝田の考えをまとめて文章にしたのは、朝田が「わたしたちのメンバー」と呼び、のちに「オール・ロマンス差別糾弾要項」を執筆することになる京都市役所に勤務していた中川忠次であった(9)。この公開状は、1946年の11月に発行された部落解放近畿協議会の『部落解放』創刊号に公表されたものであったが、松本治一郎・部落解放全国委員会『部落解放への三十年』に収録されたことにより、師岡佑行が指摘しているように、「その発表の形式からいって、解放委員会の見解としてうけとめられたにちがいなかった」(10)。

 「公開状」の中で特に印象に残るは、『破戒』という作品に対して朝田らが「『破

戒』を書斎から店頭から掘りだしてきて、一束にして焚書の刑に処したいとさえ考え勝ちです。」と強く非難している点である。たしかに告白の場面での丑松の卑屈で無様な姿を見れば、朝田らでなくとも、そのような感情を抱くのは理解できる。しかし、井元の発言のところで述べたように、藤村は「身元あばき」に対する丑松の不安、恐怖、おびえ、絶望や「素性」を告白するか、告白しないかと激しく揺れ動く心などに関しては正確に掴み描き出していたのであり、この点を正当に評価せずに、文学作品としての『破戒』を冷徹に切り捨てるのは不適当といえよう。

 このこととも関連するが、「藤村はすべての部落民の苦しみを描こうとしたのではなくて、ようやく自我を自覚しはじめた当時の一人のインテリゲンチャを部落という特殊の世界に置いてみて、その精神の展開を試みたまでに過ぎなかったのではないでしょうか。」という指摘に関しても、「文学者としての自己の運命を賭け」(11)て、教師の職を辞し、幼い三人の子を連れて東京に出て書きあげようとした最初の長編小説が、なぜ部落民を主人公にした『破戒』であったのかがまず問わなければならないだろう。

 さらに、丑松の「テキサス」行きの問題に関して「自らを蔑すむ卑屈の世界から飛躍することができないままに、日本を離れて、束縛のないテキサスに逃れる」と述べている点についても、実際にはテキサス移民の誘いが丑松に「様子によっては頼んで見よう、働いて見ようという気を起させた」(400頁)が、最終的に承諾したという記述はどこにもない。この問題については、土方鐵が的確に指摘しているように、「アメリカへ逃げていくからダメだというような、単純な議論だけでは、生産的」ではなく、「日露戦争前後のあの時代までさかのぼらせて」て「評価しないと、まちがいになる」(12)だろう。

 また、丑松の告白について、「自ら蔑む卑屈の世界から飛躍することができない」と評価しているが、これについても「我は穢多を恥じとせず」という猪子の思想に共鳴して行われた丑松の告白が、なぜ、あのように卑屈で無様なものに終わってしまったのかという矛盾にこそ、目を向ける必要があると思う。「テキサス」行きと同じように、告白の場面も、部落解放の視点からだけではなく、『破戒』が執筆されていた、明治日本が帝国日本への転換をなしとげつつある時代の状況の中に置き直して考えてみたならば、まったく違ったものが見えてくるのではないだろうか。

 

地元の古老の場合

 第三の文章は、児童文学者の柴田道子が長野県の部落を回って、古老から聞き取った話をまとめた『被差別部落の伝承と生活 信州の部落古老の聞き書き』(三一書房、1973年。ちくま文庫、2019年)に収められている小諸市の荒堀部落の高橋国松(当時71歳)の「語り」である。高橋が語っているように、荒堀部落は『破戒』のモデルになったところで、『破戒』には、部落名と場所が記載された「千曲川流域之図」が添えられていた。

 このような文学における地図の添付という手法は、藤村と親しい交流のあった田山花袋が1905年1月に博文館から出版した日露戦争の従軍日記『第二従軍日記』で行なっており、花袋の創意によるものと指摘されている(13)。その後、花袋は、1909年に佐倉書房から出版した書き下ろし長編小説『田舎教師』でも巻頭に地図を添えており、その理由について「巻頭に入れた地図は、足利で生れ、熊谷、行田、弥勒、羽生、この狭い間にしか概してその足跡が至らなかった青年の一生といふことを思はせたいと思って挿んだ」(『東京の三十年』博文館、1917年、425頁)と述べている。

 『破戒』の場合も、『田舎教師』と同じような意図があったと思われるが、この部落の実名と位置が記載された地図には、「人種と人種の競争」で実害を被る部落の人たちのことはまったく考慮されておらず、そのことは本文中における、モデルとなった部落に多い「苗字」の使用にも現われていた(『破戒』242頁。改定版では削除)。「文学者としての自己の運命を賭けた藤村の意気込み」(14)によるものであったかもしれないが、高橋が「わしは若い頃、『破戒』を読んで、藤村のことをかたきのように思ったさ。ざっくばらんに〈橋むこう〉なんて、書かなくたってよいじゃあないか。」と憤慨しているように、そこには実際に身元をさらされる者の苦しみや痛みに対する想像力が全く働いていない。

 その後も藤村は、「北海道の方に行ってアイヌの間に入って働いていた」部落の青年が『破戒』を読んで藤村宅へ訪れ、「素性を打ち明け」、「部落生れということのために(中学校の―宮本)同級の学生に悪(にく)まれて雪の中に倒され、さんざん胸の上あたりを靴で踏まれた」という「悲惨な過去」を語り、「もう侮辱の眼を持って見られているのではないかというような、そういう意識が残ってきて困る」と訴えたことに対して、「君らはまずそういうヒガミを第一に捨てるんだね、見たまえ、私などは何ともおもっていやしないじゃないか」(眼醒めたものの悲しみ」(『読売新聞』1923年4月4日。沖浦和光編『水平=人の世に光あれ』社会評論社、1991年、245頁)と言ってのけているように、自らの差別意識に対して無自覚であっただけでなく、差別された者の苦悩や痛みを内側から感じとる力が欠如していた。こうした困難な立場のある者に対する藤村の感性のありようは、『破戒』という作品に確実に影響を及ぼしており、この点についても注目しなければならないだろう。