【この記事の概要】 現在、私は、1977年10月に部落差別の問題を正面から取り上げることをテーマとして創刊された文芸雑誌『革』(当初の編集委員は野間宏、井上光晴、竹内泰宏、土方鐵、杉浦明平、川元祥一など)に、2020年9月から「解放文学の軌跡」という評論を連載しており、今年3月発行の『革』第42号には「解放文学の軌跡(第10回)」の「狭山事件と竹内泰宏『人間の土地』」、9月発行の第11回には「土方鐵と〈われわれの文学〉」が掲載されています。これまで紹介してきたブログの記事の多くは、この連載の下書きとして書いたもので、今後も『革』連載の批評をブログで公開していく予定です。

今回は、「解放文学の軌跡」の第1回にあたる「大西巨人と部落差別問題(下)―『黄金伝説』と『神聖喜劇』―」(『革』第34号、2021年3月)の第3回目「第8章 人間の尊厳をめぐって(1)」を掲載します。この評論の引用・転載は自由ですが、必ず出典を明記してください。

なお、今年の3月、私が『革』に連載した一連の評論と対談等をまとめた本が田畑書店から刊行される予定です。詳しくは改めてお知らせします。

 

目次

 はじめに 解放文学の可能性

 第一章  大西巨人「黄金伝説」の要約

 第二章  「黄金伝説」の時代

 第三章  部落、差別との出会い

 第四章  「黄金伝説」の評価

 第五章  中野重治、土方鉄の批判(以上、『革』第33号掲載)

 第六章  『黄金伝説』から『神聖喜劇』へ

 第七章  軍隊と部落差別

 第八章  人間の存在の尊厳をめぐって

 第九章  真の自立と連帯のあり方

 おわりに 『神聖喜劇』以後(以上、『革』第34号掲載)

 

第8章 人間の存在の尊厳をめぐって

   (1)

東堂と橋本との出会い

 東堂と橋本がはじめて出会ったのは、入隊のために乗った定期船の中であった。橋本と東堂は船室内で、ずっと隣同士に寝ており、東堂と同じように橋本も、飲みも食いもしゃべりも歌いもしないで海を渡った少数者の一人であった。そして、ただ一度だけ、東堂と橋本は短い言葉を交わしたが、それがお互い渡海中に物を言った唯一の場合であった。お互い同士好感をもち、入隊何日目かには、通信(軍事郵便)の代筆を橋本は東堂に頼んでいた。平生は、温順な、つつましい、むしろ気弱な男のように東堂には思えた橋本が、実はそれだけではないことを示す次のような出来事があった。

 

 東堂らが下士官集会所の掃除中に、東堂の下駄がなく、別の下駄が残っていた。橋本がその下駄を東堂から借りて医務室に行った時に、経理軍曹から下駄を盗んだと疑われ、びんたを張られたが、橋本は下駄が浴場で誰かから取り換えられたという申し立てをし続け、東堂の名前を出さなかった。そして東堂には「叱責だけで解放された」と報告し、びんたを張られたことは一切言わなかった。後に東堂はその時の事を目撃した別の兵士から聞き、「そのように橋本が私を庇ったということによってよりも、むしろその真相を橋本が私に知らせなかったということによって、ほとほと心を打たれたのであった。(①200―203)

 

 その日以来、東堂は「橋本にたいして、『恩を感じると腹のなかにたたんで置いて/あとでその人のために敵を殺した』という詩句心のような心持を、人知れず持ってきた」(①351)のであったが、東堂が「ほとほと心を打たれた」のは、橋本の中に秘められている人間としての気高さを実感したからであろう。 

中上健次は「小説家としての私が文章にこめんとするメッセージ」について「逃れない宿命、入り組んだ路地に住む生産手段から追い落とされた者らが、一木一草をどんなに愛するか、弱い傷ついたものをどんなにかばうか。貧苦をどんなふうにはねのけてたくましく生きているか。貧苦の中で汚辱の中でどんなに誇り高いか。」(16)と語っているが、大西もまた、中上と同じように、部落民・橋本の姿に「貧苦の中で汚辱の中でどんなに誇り高いか」というメッセージを込めようとしたのではないだろうか。

 

軍事郵便の検閲といびりへの抵抗

 橋本が通信の代筆を東堂に頼んでいたように、軍隊では兵士の家郷への通信が奨励されていた。歴史学者の鹿野政直氏は、消息を伝えるという役割を持つ兵士の通信(軍事郵便)の検閲について、それは「部隊の所在地や作戦行動など軍事機密の保持に力点を置いていた」、「おおむねその隊の若い将校(あるいは下士官の場合も)が担当したとみられるそれが、本音の吐露への強力な監視・抑止装置であったことは、いうまでもない。(中略)そのうえ検閲者がわにとっては検閲は、兵士のプライバシーに踏み入り、いびりや物笑いの種を提供するという性質を持った」(17)と述べている。東堂たち第三班の場合は、軍事郵便の検閲を担当していたのは神山上等兵であったが、このことにかかわって、次のようなエピソードが描かれている。

 

 東堂たちが入隊して二週間が経過した1月23日、通信の発信住所氏名を正しく記し得ぬ班員が絶えなかったため、神山上等兵が「福岡市博多郵便局気附 西部第77部隊 若月隊 何某」と墨書した発信人住所氏名の雛型を貼り付けた。その翌々日の夕の点呼後、鉢田忠男二等兵が異父妹に出したハガキの発信人氏名に「何某」と書いたことに対して、大前田軍曹や神山上等兵が、「いつからお前は『何某』と名前を変えたんじゃ」等といびると共に、鉢田のプライバシーに踏み入って暴き、笑いものにするようなことがあった。(①270―280)

 

 鉢田は幼い頃に父親を亡くし、九歳の時に母親が鉢田を連れて再婚した。石炭採掘に関係する人々が多かった福岡県の遠賀川流域地方(筑豊炭田)で生まれたと思われる鉢田も、子どもの頃から坑夫となって働いていた。「左頬にある火傷の瘢痕のため左眼があかんべのように引き攣ってい」た鉢田は、その生まれとともに、容姿によっても多くの辛い体験をしていた。しかし、それゆえに、その痛みを通して差別される側の人たちに対する共感力を、生活と労働の中から身につけていた。したがって、橋本が部落民であることを知っても「いんね、特別の感想ちゅうて、なかった。・・・地方で、ヤマで、内は、新平民部落出の坑夫どもと、よう付き合うとったもん。内も、小さな時分から分けへだてをさるるとにゃ慣れとったけんなぁ。・・・ばってん、軍隊の分けへだては、かえってエズウ陰に籠もっとるごともあるばい。」(⑤27)と語っている。

 東堂は、大前田や神山らによる鉢田へのいびり・嘲笑に関して、「下級者新兵の軍事兵事に無関係な個人生活、その内幕、その弱点恥部を不必要に突き出して晒し者、笑い物にするのも上官上級者の特権の一つ、楽しみの一つになっている」(①272)と述べている。私的制裁とともに、一つの憂さ晴らしでもあった上官上級者(古参兵)による下級者新兵いじめは、軍隊生活に不満を持つ古参兵が弱者に向けた非合理的な感情の爆発であり(18)、抑圧移譲の典型的な現象であった。

 さらにまた、この場面では、大前田と鉢田との間で次のような印象的なやりとりが行われている。

 

   「(前略)鉢田は、炭鉱に行っとったとか。嘉穂郡なら筑豊じゃが、石炭堀りをしよっとか。」

   「はい。坑夫であります。」

   「そうか。『炭鉱風呂やらボタ山の煙やらが、なつかしいごとあります。』と書いとるが、お前は、石炭堀りがよ  

   っぽど好きじゃっとか。」

    鉢田の答えが出るまでには二、三呼吸の間があった。

    私は信じるが、大前田の質問も揶揄的・挑発的ではなかったし、鉢田の返事も卑屈的・反撥的ではなかった。し

   かし鉢田は、いかにも索然として、取りつく島もないようにつぶやいていた。

   「――好きで坑夫になったとじゃなかであります。十幾つんときから坑内い下がっっちゃおりましたばって 

   ん・・・・・・。」

   上官上級者が、この答え方に文句を付けようと思えば、たくさんに付けられるであろう。私は、かすかに恐れた。

   だが、今夜の大前田の風向きは、いつもとは大分違うようでもあった。接ぎ穂を見失ったように大前田は、だまっ

   た。(①279)

 

 大前田について、大西は「作中人物としての愛着をだんだん強く感じました。積極消極・善悪明暗の両面があり、しかしそれがある意味において『日本農民』の一つの典型である」(19)と述べている。とくに大前田が上官上級者の話に反発する時には、民衆を代表して、その置かれている状況や気持ちを代弁するような場面が描かれていた。

しかし、この場面で大西は、民衆というものが一くくりにできるような単純なものではなく、農民の下にはさらに過酷な労働を強いられていた坑夫などの底辺の労働者が存在していることを描いていた。そして、「接ぎ穂を見失ったよう」な大前田の姿に示されているように、「『日本農民』の一つの典型」である大前田には、自分より下位にある炭鉱労働者・鉢田の内面の苦悩に対する感性が鈍化させられていることを浮き彫りにしたのだった。

 新日本文学会主催「連続講座『神聖喜劇』を読む」の最後(1980年7月19日)で大西は「鉢田二等兵の『発信人「何某」』一件が問題になる夜の場面[第二部「混沌の章」第三「現身の虐殺者]の「二」]があるでしょう? あそこを書いたのは、連載足かけ三年目ぐらいでしょうか。私は、その三十枚ほどの場面を書いたときにね、その一場面を書き得たことだけでも『神聖喜劇』の制作をやり始めた甲斐があった、と実によろこびを覚えた」(「面談 長編小説『神聖喜劇』について」前掲書、371頁)と語っている。

大西が「よろこびを覚えた」のは、多様な民衆を分断させているものは何かという『神聖喜劇』の主題の一つを表現し得たことによるものであったのではないだろうか。

 

「執念深くて粘り強い土性骨」

 「鉢田二等兵の『発信人「何某」』一件」があってから10日ほど経った2月3日の朝食後、軍事郵便の検閲にかかわって、漁師出身の石橋二等兵が書いた「毎日毎日三度三度大根のおかずばっかり食べておりますので、大根中毒しそうです。このごろは戦友たちの顔までが大根のように見えてきました。よろしくお頼みします」というハガキが問題になった(①182)。

 このハガキについて、神山上等兵は「地方に出す便りに軍事機密、軍隊の内情、この西部第77部隊の所在地その他つまらぬことを書いてはならないということが、お前たちには何度も徹底的に教え込まれとる。(中略)ところが、この石橋のはがき二枚だ。こんなひどいはがきには神山も今度初めてお目にかかったぞ。防諜心が欠如して軍人精神がたるんどるから、軍事機密を漏らそうとしたり、嘘八百を書きならべたり、することになる。軍隊の副食物に大根が多い、というような軍事機密を、地方人に発信するとは、何事か。不謹慎も甚だしい。(後略)」と叱責した(①185)。

そこへ堀江控置部隊長が入ってきて、「郵便物に関する防諜上の注意というのは、何かあったのか。」と大前田軍曹に質問し、さらに「軍事機密とはどういうものなのか。言うてみよ。」と荒巻二等兵が命令した。荒巻が「はい。・・・大根のおかずのようなものであります。終わり。」と答えたので、不審に思った堀江隊長は次に橋本に質問した。「(大根の菜を軍事機密と)思うとりました。」と答えた橋本は「神山上等兵殿が、そう言われたましたから、橋本二等兵はそう思うとりました。」と述べ、「軍事機密=大根の菜」が神山の発言であったことを暴露した(①199~200)。神山上等兵は「何を言うか。橋本。神山が。いつそんなことを――。」と自らの発言をごまかそうとし、さらに橋本が義務教育を修了していないことを強調して、橋本の発言の正当性を否定しようとした。

 その後、橋本の最終学歴をめぐるやりとりがあった後、堀江隊長と橋本との間で次のようなやりとりが行われた。

 

 堀江隊長は「よぉし。――橋本。お前は、自分の学歴をまちがえたり、

大根の菜が軍事機密だと教わったなどと夢うつつのような錯覚を起こしたり、いい加減なことばかり口走っておったのでは、到底兵の本分を尽くすことはできん。『一つの誠心』が、大切じゃ。上官の教えに正しく従がって、誠心誠意ご奉公に精を出す。橋本だけのことではない。ほかの兵も皆同じじゃ。いいか。」(①217)と説教した。

 これに対して、橋本は、堀江隊長を「部隊長」と間違って呼んだ後に、「あのぉ、橋本は学校のことはまちがうとりました。けんども大根のおかずは 軍事機密じゃちゅうとは、・・・うんにゃ、その、神山上等兵殿がそげに言われたちゅうとは、嘘ごとじゃ、ありまっせん、ほんなことであります。こりゃ、ほかの者もみんな聞いて知っと――。」(①218)と異議申し立てを行なった。

 この上告は神山の威嚇により一旦途切れたが、堀江隊長の「橋本。お前は、後刻班長、班附が言って聞かせることを『一つの誠心』から聞いて、その教えをしっかり守る。そうすれば、そういうバカなまちがいをしたり言うたりすることもなくなる。皆もよく聞いておけ。地方での教育、地位、身分の高い低いは、軍隊になんの関係もない。兵隊はすべて陛下の赤子じゃ」(①225)という「一視同仁」の説教の後に、またもや橋本は「部隊長――、違う、隊長殿・それでん『一つの誠心』から、あれは、嘘ごとじゃないであります。橋本一人が聞いたとじゃありません。みんなが聞いとります。」(同前)と異議申し立てを行ったのだった。

 

 この後、神山が「大根の菜=軍事機密」と話したことに関しては、東堂や福岡市内のガス会工員の曾根田二等兵、版彫り職人の室町二等兵、さらには班附の村崎一等兵の証言によって明らかになったが、このような橋本の堀江隊長に対する異議申し立てについて、東堂は「矢面に立たされているのが私ではなく彼自身であるとはいえ、再度、橋本は、私の日和見主義を苦もなく跨いで越えたのである。橋本が形勢の不利と神山の威嚇とを冒して神山の『大根の菜=軍事機密説』をまたもや指摘する、とは――彼が自己の無実ないし正当を『恐れ多くも隊長殿にむかって』いまにしてなおかつ言い張る、とは――つゆばかりも私は予想しなかったのであった。隊長以下全員が私と同様であったにちがいなかったであろう。彼のたどたどしい、いっそ鈍根な物言いの内側には、そのくせなんとも執念深くて粘り強い土性骨、なんだか泥臭くて朴訥な元気が、埋み火のように潜在するかと私に感じられた。それは、ありがたい無形の(私などには欠乏している)何物かではなかろうか。」(①218)と述べている。

 東堂が「百折不撓ノ心」(①241)とも表現したほど、橋本が権力を恐れずに執拗な異議申し立てを一人で行いつづけたのは、事柄が人間の存在の尊厳にかかわっていたからであろう。野間宏が『真空地帯』刊行の前年の1951年に、「自分自身の人間を回復しようというもっとも基本的な要求が日本の他のどこよりも、部落から発する」、「部落の人たちは、封建的な資本主義的な差別の欠陥をつねに鋭敏にかんじるひとである故に、いかなるときでもそれにおちいることのないすぐれた人間となりうる可能的な条件をそなえている」(「部落に於ける文化運動(1)」『部落』22号、1951年6月)と語っているように、こうした強者の不正義に対して人間としての尊厳を貫こうとする精神は、橋本個人の特性であると同時に、部落に深く根ざしたものであったのだった。

 この点について、野間と同様に、大西もまた着目していたことは、東堂の次のような言葉から窺うことができる。

 

   その上、今朝も私は、彼の孤軍奮闘する姿から、なんとも執念深くて粘り強い土性骨を、あるいはなんだか朴訥な

  元気を、ありがたく見て取ってもいた。彼が部落民であろうとなかろうと、その私の心持ちに毛頭変転があろうはず

  はなかった。あるいは私は、仮に橋本が部落民であるならば、彼にたいする私の心持ちはひとしお深まり・彼にたい

  する私のその共感はいっそう強まるであろう、というふうにも感じたのであり、同時にそんな感じ方について多少の

  反省をも意識したのである。(①351)

 

 もちろん、このような不正義に対する不服従の精神は、橋本の異議申し立てに対する東堂、室町、曾根田、村崎の連帯が示しているように、部落だけに特定できるものではなく、人間の本質に根ざした普遍的なものであることはいうまでもない。しかし、そのような普遍的な価値が「日本のどこよりも部落から発する」(野間宏、前掲論文)ということを、大西もまた見つめようとしていたのではないだろうか。