大西巨人と部落差別問題(下)②―軍隊と部落差別

 

【この記事の概要】 現在、私は、1977年10月に部落差別の問題を正面から取り上げることをテーマとして創刊された文芸雑誌『革』(当初の編集委員は野間宏、井上光晴、竹内泰宏、土方鐵、杉浦明平、川元祥一など)に、2020年9月から「解放文学の軌跡」という評論を連載しており、今年3月発行の『革』第42号には「解放文学の軌跡(第10回)」の「狭山事件と竹内泰宏『人間の土地』」、9月発行の第11回には「土方鐵と〈われわれの文学〉」が掲載されています。これまで紹介してきたブログの記事の多くは、この連載の下書きとして書いたもので、今後も『革』連載の批評をブログで公開していく予定です。

今回は、「解放文学の軌跡」の第1回にあたる「大西巨人と部落差別問題(下)―『黄金伝説』と『神聖喜劇』―」(『革』第34号、2021年3月)の第2回目「第7章 軍隊と部落差別」を掲載します。この評論の引用・転載は自由ですが、必ず出典を明記してください。

 なお、来年、私が『革』に連載した一連の評論と対談等をまとめた本が田畑書店から刊行される予定です。詳しくは改めてお知らせします。

 

目次

 はじめに 解放文学の可能性

 第一章  大西巨人「黄金伝説」の要約

 第二章  「黄金伝説」の時代

 第三章  部落、差別との出会い

 第四章  「黄金伝説」の評価

 第五章  中野重治、土方鉄の批判(以上、『革』第33号掲載)

 第六章  『黄金伝説』から『神聖喜劇』へ

 第七章  軍隊と部落差別

 第八章  人間の存在の尊厳をめぐって

 第九章  真の自立と連帯のあり方

 おわりに 『神聖喜劇』以後(以上、『革』第34号掲載)

 

第7章 軍隊と部落差別

軍隊と兵営生活

 フランスやプロイセンの軍制をモデルにして、日本に近代的な徴兵制が導入されたのは1872年であった(5)。その後、数回の徴兵令改正が行われ、士族の反乱や農民一揆の鎮圧といった国内の治安を重点にした内征型から対外戦争や派兵を目標にした外征型軍隊への転換、「廃疾」や「不具者」以外の免役を認めないなどのさまざまな手直しが行われた。そして1927年には兵役法が公布され、満20歳になった青年は徴兵検査を受けることが義務づけられ、身長や身体の強健度を基準にして、甲・乙種が現役に適する者(軍隊に入営して軍務につく者)、丙種が現役には適さないが国民兵役には適する者、丁種は心身に問題を抱え兵役に適さない者、戊種は翌年再検査の者などにふるい分けられ、障害者の場合、軽度の身体障害者は丁種、重度の身体障害者は兵役免除とされた。

 日中戦争が始まる頃までは、必要とされる兵員数がそれほど多くなかったため、おおよそ、甲種合格者が現役兵として入営し、第一乙種が第一補充兵役(現役兵に欠員が生じた場合の補充要員)、第二乙種が第二補充兵役とされた。しかし、日中戦争の本格化と太平洋戦争の開戦によって大規模な兵力増員が始まると、補充兵役も現役兵として召集されるようになった。東堂たちが補充兵として対馬要塞重砲兵連隊に入隊した背景にはこういう事情があった。

 召集をかけられて軍隊に入った兵士たちは、短期間それぞれの所で教育訓練を受け、中国大陸や東南アジアなどの戦地に送られた。召集のときに使われたのが召集令状(赤紙)であったが、『神聖喜劇』のなかで東堂らの班長の大前田軍曹が「お前たちのような消耗品は、一枚二銭のはがきでなんぼでも代わりが来るが、兵器は、小銃は、二銭じゃ出来んからな。銃の取り扱い方、手入れ法を、よう勉強しとけよ」(※①68)と話しているように、兵士たちは「消耗品」として貶められ扱われた。

 このような兵士たちの兵営内での平時の起居生活の最小単位が内務班であった。内務班は、三十から四十名からなり、班長には軍曹があたり、軍曹の下に班附として伍長、上等兵・一等兵などが二人付いた。東堂たちの第三内務班の場合、班長は大前田軍曹、班附は神山上等兵、村崎一等兵であった。

 内務班での兵営生活は、入隊前の東堂らが抱いていた「軍隊は一般世間とは非常に異なる別世界である。下は上にたいして絶対に服従しなくてはならない、何かにつけてむやみやたらにひどい制裁が行われる」(①28)と抱いていたようなものとは違い、金玉の容れ方まで『被服手入保存法』で「睾丸ハ左方二容ルルヲ可トス」(②220)と決められているような「論理主義的・法治主義的世界」(①211)であった。

もちろん「論理主義的・法治主義的世界」とはいっても、神山上等兵が「軍隊の下級者は上官の言いつけに従がっていればあやまちはない」(①54)、「個性の存在は、軍隊では不必要だし、不可能だ。一か月も兵隊生活をすれば、個性は完全に消えてなくなる。現にこの神山がそうだった。またそうであって初めて、軍人精神の入った一人前の兵隊になられる。それが滅私奉公だ。」(①43)と説教しているように、そこで強制されるのは絶対服従であり、「個性」という人間的要素を取り去ることであった。野間宏の小説『真空地帯』で定義している通り、「兵営ハ条文ト柵二トリマカレタ一丁四方ノ空間二シテ、強力ナ圧力ニヨッテツクラレタ抽象的社会デアル。人間ハコノナカ二アッテ人間ノ要素ヲ取リ去ラレ兵隊二ナル」(『野間宏作品集』2真空地帯、岩波書店、1988年)のであった。

言うまでもなく、兵隊になるために人間的要素を取り去る必要があったのは、一個の歯車として戦争で人を殺すためであった。大前田軍曹は、こう演説している。

 

 なんのための銃剣か。殺すためじゃろうが? 人殺しのための道具じゃろ うが? 味方だけが持っとりゃせん。敵も持っとる。殺さにゃ殺されるだけのことよ。それが戦争よ。どこの国のどげな軍隊が、負くるために戦争するとか。そげなバカはなかろうもん? そんなら敵ちゅう敵は殺し上げて、土地でんなんでん取って取り上ぐるとじゃ。(中略)大将やら大臣やら博士やらが上っ面だけどげん体裁のええごたぁることを仰せられましても、殺して殺し上げて、取って取り上ぐるとが戦争じゃ。(①327)

 

 軍隊に関して、先の『真空地帯』の「解説」で西川長夫氏は、「人間が人間的要素を取り去られて等しく兵隊という、戦争と抑圧の道具となる場所」であり、「フランス革命の解放的民主主義的軍隊がただちにナポレオンの帝国軍隊に変質し、後には植民地支配の道具となったように、あるいはアメリカの軍隊がベトナムで、ソ連の軍隊がアフガニスタンでその本質をさらけだしたように、戦後40年の歴史は、良い核兵器がないと同様よい軍隊はなく、良い軍隊がないと同様良い国家も存在しえないといことを証明している」と指摘している。

実際、1979年に発表されたグスタフ・ハウスフォードの小説『フルメタル・ジャケット』(高見浩訳、角川文庫、1986年)の中でも、ベトナム戦争下のアメリカ海兵隊基地での訓練で新兵たちが人間的要素を削ぎ落とされ、「殺人マシーン」に鍛え上げられていく様子が描かれている(6)。このように、日本の軍隊だけが特別だとはいえず、『神聖喜劇』はこのような軍隊の役割や戦争の本質を描き出していた。

 

※『神聖喜劇』全5巻(光文社、1978―1980年)からの引用の表記は、巻数と頁数を、たとえば①161(第一巻、161頁を意味する)としている

 

日本社会の「縮図」

 日本の近代は国家自体が一種の「兵営国家」「擬似兵営」であり、軍隊は近代日本の秩序感覚の純粋培養された空間であった(7)。大西も、野間宏『真空地帯』に対する批評「俗情との結託」(『新日本文学』1952年10月号)で「兵営は言葉の世俗的な意味に於いてまさしく『特殊ノ境涯』であったが、その真意に於いては決して『特殊ノ境涯』でも別世界でもなく、日本の半封建的絶対主義性・帝国主義的反動性を圧縮された形で最も濃密に実現した国家の部分であり、自余の社会と密接な内面的連関性を持つ『地帯』であった」と述べている(8)。

軍隊が「自余の社会と密接な内面的連関性を持つ『地帯』」であることについては、『神聖喜劇』の「第四部伝承の章 第三縮図」の中で零細農家出身の鍛冶職人で、東堂が信頼している村崎一等兵はこう語っている。

 

 いったい軍隊は地方での家柄、地位、身分、学歴なんかがまるで物を言わん所じゃ、とか、軍隊じゃ華族も平民も金持ちも貧乏人も大学出も小学校出もヒラヘイトウ(平等無差別)じゃ、とか、そげなことを、地方でも軍隊でも、よう言うじゃろう? そりゃ、ひととおりまことしやかな言いぐさじゃばってん、煎じ詰めりゃ嘘の皮じゃ、おれは思う。(中略)長い目で軍隊全体を見渡しゃ、地方での家柄、地位、身分、学歴なんかが、おおかたそれ相当にちゃんと物を言うとろうぜ。現にその男が軍隊での階級のオトマシイ(うとましい)序列の中でどこへんに置かれるかちゅうことは、もとその男が地方での生まれや育ちやら暮らし向きやらのオトマシイ序列の中でどこへんに置かれとったかちゅうことに、――そっくりそのままじゃないにしたっちゃ、――かれこれたいがい見合うとろうぜ。(②306)

 

 村崎が語っているように、軍隊の序列は、「地方」(一般社会)での家柄、地位、身分、学歴に基づいた序列に対応したものであった。天皇を頂点とする敗戦までの日本の序列の構造は、天皇の下に貴族・大地主・資本家などの支配層、その下に官僚や町村長を兼ねる地方の名望家などの支配補助層、さらにその下に一般の農民層や近代産業の労働者層、末端に都市の細民や底辺労働者、村の小作人層、一番最底辺に部落民やアイヌ、沖縄、在日朝鮮人や植民地台湾人などの被差別民が配置されていた。そしてこの序列の構造は、天皇に近ければ近いほど人間の価値が高いとされ、天皇から遠ざかるほど人間が下等に扱われるという価値観が厳然と存在した差別の構造であった(9)。

このような差別と序列の構造において天皇は最高の頂点であったが、ピラミッドの頂点ではなく、そこから切れた超頂点ともいうべき存在で、いっさいの責任を問われないという構造になっていた(10)。この問題について、軍隊における「知りません」禁止、「忘れました」強制という「習慣法」の成立事情を推理した東堂は次のように語っている。

 

  ・・・あの不文法または慣習法を支えているのは、下級者にたいして上級者の責任は必ず常に阻却せられていなければならない、という論理ではないのか。(中略)言い換えれば、それは、上級者は下級者の責任をほしいままに追求することができる、しかし下級者は上級者の責任を微塵も問うことができない、というような思想であろう。・・・この(下級者にたいする)上級者責任阻却あるいは上級者無責任という思想の端的・惰性的な日常生活化が、「知りません」禁止、「忘れました」強制の慣習ではあるまいか。(中略その上へ上への追跡があげくの果てに行き当たるのは、またしても天皇なのである。しかるにその統帥大権者が、完全無際限に責任を阻却せられている以上、ここで責任は、最終的に霧散霧消し、その所在は、永遠に突き止められることがない(あるいはその元来の不存在が突き止められる)。・・・それならば、「世世天皇の統率し給ふ所にぞある」「わが国の軍隊」とは、累累たる無責任の体系、膨大な責任不存在の機構ということになろう。(①207―209)

 

 このような「累累たる無責任の大系、膨大な責任不存在の機構」は、上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に移譲して行くことによって全体のバランスが維持されている体系であって、その中では権力によって抑圧された被害者は、その怨恨の心理的補償を求めて、より弱い立場の人に抑圧を移譲していく「抑圧の移譲」という現象が見られた(11)。この「抑圧の移譲」の現象は、二年以上の古参兵の初年兵に対する私的制裁に典型的に示されているが、『神聖喜劇』で描かれている内務班における部落差別、職業差別、学歴差別、障害者差別などのさまざまな差別も、その具体的な現われであった。

 とりわけ、大前田軍曹および神山上等兵ら下士官兵士による橋本に対する「なんでも水平にするとが、お前らの得手じゃなかったとか。」・・・「四つん這いが似合うちゃおるとじゃろうが、」・・・「身上調査でお前が嘘を吐いたのも、学歴のことだけじゃなかったはずだ。」・・・「おれたちとは違うて、お前たちの中にゃ、チンポは半分しか持たんごたぁる半端者ばしが、ざらにおるちゅうとか。」「縫製工場に行って靴作りでもしたほうが適当しとろうぞ」(①367、368)の差別・悪態、冬木に対する神山上等兵の「冬木はどっちにしろあんな人間だし」や巡察兵の「ふぅん。お前が冬木か。・・・そっちの、なんとか太郎も、冬木の仲間か」(③282)の仄めかし・当てこすり等々が描かれているように、抑圧移譲の現象を象徴するものとして部落差別の問題が取りあげられていた。

 さらに、大西は、東堂も好意を抱いており、自分自身も職義差別を受けた版彫り職人の室町二等兵による「そうそう。それに、おれたちが、なんぼ手職の人間じゃちゅうても、四つか何かじゃありゃせず、どっこも違う所はないじゃもん。相手が誰じゃったちゃ、人様からそげんむやみに見下げられにゃならん訳はないよねぇ。」(③122)という差別、それに反応した床屋の村田二等兵の「そんなこと言うちゃいかんよ。・・・ひょっとしてそんな話しが妙な相手の小耳にでも挟まれてみろ、そりゃ、またどんなメンドウシイことになるかわからんぜ。」(③123)という警告など、軍隊内の差別が下士官兵士の差別だけでないことを描いていた。『黄金伝説』においても「被支配階級各部分」にまで貫徹している差別の複雑なメカニズムが取りあげられていたが、『神聖喜劇』では室町や村田の発言の根底にある「意識ないし下意識」に対する東堂の分析・理解などの心の動きも具体的に描かれ、作品の奥行きが深められていた。

 もちろん、このような軍隊内での部落差別は、冬木が「営門を潜って軍服を着れば、裸かの人間同士の暮らしかと思うとったら、ここにも世の中の何やかやがひっついて来とる。ちっとも変わりはありゃせん」(①63)と語っているように、「自余の社会と密接な内面的連関性」を持っており、日本社会の「縮図」ともいえるものだった。

 

軍隊内の差別との闘い

 橋本の叔父の井浦正五郎が「共謀者」の一人として懲役三年に処せられた「福岡聯隊爆破陰謀事件」に関しては、「黄金伝説」でも「この県(市)は部落解放運動が全国でも最も伝統的に活発とされている地方の一つである。解放運動三十年の歴史のなかでの重要な動きが実際にいくつかここでおこった。反軍闘争の先駆と云われたいわゆる『F―聯隊爆破事件』も、ここでの事である(1926年)」と簡単に触れられていたが、『神聖喜劇』では次のように詳しく説明されている。

 

――大正末期・昭和初期(1920年代)ごろ、福岡聯隊内で部落(出身者)差別事件が頻発した。九州水平社同人は、軍隊内差別撤廃闘争・聯隊糾弾闘争に積極的に乗り出した。やがてそれは、無産政党、労働組合、農民組合などの支持協力を集め、一大反軍的階級闘争化しつつあった。

ところが、突如として官権は、水平社の中心人物松本治一郎(福岡市近郊在住)ほか積極分子など十数人を福岡聯隊爆破陰謀の容疑で逮捕した(松本らは、かなり説得的な証拠を挙げてその冤罪たることを終始主張しつづけたにもかかわらず、起訴せられ、始審においても終審においても懲役三年六カ月ないし三年と判決せられ、下獄した)。そこでその闘争も、それとしては頓挫してしまったのである。・・・・(⑤152)

 

 軍隊内の差別撤廃を求める取り組みは、1922年の全国水平社結成以前から行われていた。たとえば、私の住む三重松阪では、1919年に、久居51連隊に所属する小野寺大尉の差別発言を聞いた都市部落の人たちがその大尉を糾弾するとともに、軍隊内における差別撤廃を求める「陳情書」を内閣総理大臣、陸海軍大臣、内務大臣、三重県知事、久居51連隊長、松阪警察署長に送っている(12)。

 全国水平社が結成されると、軍隊糾弾は主要課題の一つとされ、1923年の第2回大会で〈軍隊内の差別に就て陸海軍大臣に反省を促す件〉を決議し、翌年の第3回大会でも前年の決議の趣旨を徹底させることを決議した(13)。一方、福岡では、1926年1月に福岡歩兵第24連隊に入営した水平社松原青年同盟員・井元麟之(後の全国水平社書記長)らが隊内で起きた差別事件を契機に部落出身兵士の横の連絡網〈兵卒同盟〉を極秘裏に組織して差別を摘発、水平社による福岡連隊差別糾弾闘争(福連闘争)への道を開いていた。これに対して、官憲側は強行弾圧を決定し、〈福岡連隊爆破陰謀事件〉をデッチあげ、松本治一郎らを検挙した(14)。

 ところで、全国水平社常任中央委員会編『部落委員会活動に就いて―全国水平社運動を如何に展開するか―』(1934年7月)に「部落は吾々の唯一の闘争の基本的舞台であり、吾々の組織の基礎は部落である」(部落問題研究所編刊『水平運動史の研究』第4巻資料篇下、1972年、225頁)と書かれているように、部落解放運動は、部落差別が個人だけでなく、部落=共同体そのものを傷つける行為であることから、共同体としての対処を組織・活動の基本としていた。福連闘争においても、県下各部落での糾弾演説会、部落民大会の開催、署名やカンパ活動が部落を「基本的舞台」にして活発に展開された(同前、第3巻資料篇中、1972年、35~38頁)。

 この〈福岡連隊爆破陰謀事件〉が発生したころ、橋本は「尋常科の中学年生であって」、「事件についても正五郎叔父についても格別深い理解に達することはでなかったものの、なんとなく正五郎叔父(たちの行き方)に敬愛共感を抱いていた。」(⑤154)と語っている。東堂は橋本の性格の特徴を「執念深くて粘り強い土性骨」と表現しているが、このような共同体ぐるみの闘いが行われた部落で育った橋本が、権力を恐れない反骨心と部落差別を許さない強い気持ちを持つに至ったのは当然のことであったろう。この点については『神聖喜劇』では触れられていないが、後に見るような上官に対する橋本の抵抗もこのことを抜きにしては考えられないだろう。

 一方、軍隊内の差別撤廃の取り組みについては、堀江控置部隊長が「皆もよく聞いておけ。最前も隊長が言うたとおり、地方での教育、地位、身分の高い低いは、軍隊にはなんの関係もない。兵隊は、すべてひとしく陛下の赤子じゃ。これを『一視同仁』と言うておる。変な思い違いをして、地方での地位を鼻にかけて高ぶったり、また地方での身分を卑下してひねくれたり、するようなことがあってはならんぞ。いいか。」(①225)と説教しているように、天皇の眼差しの前ではすべての国民(=天皇の赤子)は平等に「仁」(慈しみ)を受けることになるという「一視同仁」が強調され、「『部落』のことは、そもそも表むきに出ししゃならなんことになっ」ていた(⑤70)。

先の小野寺大尉差別事件が起きた際に、陸軍は「部落民ハ一般ニ団結心強ク部落ノ利害関係ニ関シテハ常ニ多衆団結(之等部落民ノ通有性ト見ルへキカ)スルノ風アリ」(『将校失言ニ関スル報告』旧・松阪市部落史編纂室蔵)という認識を示し、部落民が一般的な規範とは異なる原理の中で生きる集団であるとして、警戒の目を光らせていた。そして、全国水平社が結成されると、内務省は水平社運動が国家に大打撃を与えるかもしれないとして危険感を強め、軍隊内の差別糾弾の闘いが展開されてくると、彼らは部落民による叛乱の不安に促されて、「福岡聯隊爆破陰謀事件」のような徹底した弾圧を行った。

 それと同時に、東堂が「水平(部落解放運動)または融和事業の現状に不案内な私は、日華事変下の日本軍隊(軍部)が部落出身兵にたいしてどういう態度を取ってきたか、そこにどんな問題があったか否か、をも知らなかった。たぶんただ上からの偽善的な融和主義政策が軍隊でも行われてきたのであろう(それだから公式的・表面的な差別圧迫はひととおり存在しなくなったのであろう)とは、私も考えることができた。それが、帝国主義的侵略戦争遂行途上の国家権力にとって、ひとしお必要であるに相違なかった」(①348)と推測しているように、「帝国主義的侵略戦争遂行」のために、部落民の統合を積極的にはかる必要性があることから、公的な立場からは部落差別を否定的に論じたのであった。

このように、軍隊における「一視同仁」の主張は、部落差別を解消するのではなく、部落差別が引き起こす叛乱の不安を処理するために行なわれたものであり(15)、「軍・上官上級者の仄めかしや当てつけや融和主義的体裁ぶりや似非民主平等主義や温情主義的お為ごかしやは、どれもこれも実に極めて陋劣」(④187)なものにすぎなかった。『神聖喜劇』は、このような軍隊における差別と不正義に対する闘いを真正面から取りあげて、人間の解放の在り様とその方向とを鮮明に示そうとしたのだった。