見えるものと見えないもの
村上春樹の「スプートニクの恋人」
と
同じく村上春樹の「猫を棄てる」
を偶然、同時に図書館から借りて、
私はその両方の本に共通している猫の消える話を発見した。
同時に借りた三冊目の本は、
「シュタイナー入門」
シュタイナーの生い立ちが描かれている。
「スプートニクの恋人」と「猫を棄てる」に
共通点があるなら、
それらの本と、「シュタイナー入門」にも
どこかしらの共通点はないだろうか?
「スプートニクの恋人」で、
ミュウはドッペルゲンガーを体験する。
スイスの小さな町の遊園地で、
一晩観覧車の中に閉じ込められ、
双眼鏡で自分の部屋の中にいる
もう一人の自己の姿を見る。
その体験はミュウという人間を破壊してしまう。
あるいは、
その破壊性を顕在化する。
一枚の鏡を隔てて分割されてしまう。
***
その両方の文章に共通しているモチーフは、
あきらかに「こちら側」と「あちら側」の関係だった。
***
「シュタイナー入門」
*
*
その代用教員の所で、
少年は、幾何学の本を発見した。
これはシュタイナーの少年時代において、
決定的な瞬間であった!
「私は、感激してそれにとりかかった。
何週間というもの、私の魂は
『三角形・四角形・多角形の合同と相似』
でいっぱいだった。
わたしはまた、平行線は、
本来どこで交差するのかという問題に、
あれこれ思索を巡らせた。
ピタゴラスの定理は、私を夢中にさせてしまった
—全く知的にある事柄を理解できるということは、
私に内的な幸福をもたらした。
幾何学というものに触れて初めて、
私は幸福というものを知ったのである」
***
人間は、幾何学のように
霊界の知識を自らの内に持っていなければならない、
と感じていた。
私にとって、
霊界の現実性は
感覚界のそれと同じくらい
確かなことだったからである。
私には、この仮説を、
ある意味で正当化することが必要だった。
霊界の体験は感覚界の体験と同様に
錯覚であることはめったにない、ということを
私は自分自身に言いたかったのである。
幾何学の場合でいえば、
魂が魂それ自身の力で体験することを、
人々は知ることができるのだということを、
私は感じた。
こうした気持ちから、
私は、感覚界について語るのと同様に、
自分が体験した霊界について語る正当性を見出し、
事実、語った。
私は、二つの観念
—見えるものと見えないもの—
を持っていた。
それは漠然とはしていたが、
八歳になる前から、
私の精神生活に大きな役割を果たしていた。
私は見える事物や本質と
見えない事物や本質とを、
区別していたのである」。
***
こちら側
と
あちら側
*
見える事物
と
見えない事物
*
見える猫
と
消えた猫
そこをつなぐもの
恐怖から、隔てて、そこに行こうとしないのではなく
そことつながり、
両方の世界に
命を与えていくこと
それが見える人の
役割なのかも
しれない