皆さん、覚醒は進んでいますか?

 

覚醒、すなわち神性を高めていくために、重要なのは「私」です。

「私」との自己対話を通して、神性は自らを語ることができるのです。

「私」を主観的にとらえるだけではなく、「私」を客体的にとらえる訓練を積むことで、魂の神性が語り始めるのです。

 

「私」は自らの主体性を示す言葉であり、自らが宇宙の中心と認識する言葉です。

その「私」を主観からではなく、客体とみなすことで、霊的世界への認識に近づくのです。

 

なぜなら、霊的世界においては、この世界とポジとネガの関係にあるからです。

つまり、私が私を取り巻く外の環境となり、外の世界に存在する「私」を見るのです。

 

彼らが奪いたいのは、「私」です。AIが認識する番号にし、霊性を奪い家畜化し、遺伝子を組み換え所有しようとするのも、誰一人取り残さずに財産を奪い共産化しようとするのも、すべてが「私」を奪い、考え方や、健康や、言論もコントロールしようとするのです。

つまり、「私」を奪い、自我の乗っ取り、進化から逸脱させ、精神から切り離し、動物化させて支配しようとするのです。

 

そして、悪の存在意義と悪の変容で書いたように、それをテコにして、私たちは霊性を覚醒しなければなりません。

 

その覚醒へ導くのが、宇宙の中心となる「私」なのです。

「私」は私を宇宙と結びつける力なのです

 

 

 

すべての宗教は、この「私」を魂の最高の部分の表現であり、この存在を通してのみ、魂は自分自身の中に神性をかたらせることができる、と感じていた。
ここにはじめて、いかなる霊能力をもってしても外側からはいきつくことのできぬ魂の存在部分が始まる。

この部分においてはじめて、魂の独白と自己対話とが始まる。

そして魂に内在する神性は、このような自己対話を通してのみ、自らを告知することができる。

地上の存在者の中で、人間だけがこの存在部分を所有している。
しかもこの「私」は人間の未来の高次の存在諸部分の萌芽を内在し、これを育成しつつあるのである。

 

 

 

皆さんは「私」という言葉を、この言葉への畏敬の念なしに語ります。
ですがこの「私」という言葉は人類の発展において常に畏敬の念なしに語られたのではありません。

エジプトの時代でさえ「私」という言葉は人々を気絶させるほどの威力を持っていました。
それゆえ、この言葉を話すことを当時の人々は避けました。

アトランティス大陸の破局のすぐ後の最初の民族が、当時、秘儀参入者にのみ知られていた「私」という表現を使用したとしたら、そこに集まる人々全体が気絶し倒れてしまったことでしょう。
それほどに「私」という言葉の威力は大きかったのです。

この事実の残響が古いヘブライ時代になお残っていました。
そこでは魂の中で話してはならない神の名前について話すときは、秘儀参入者によってのみ語ることが許されるか、あるいは皆の前では言葉を身振り言語により表現していました。

語ることの許されない神の名前には、このような起源があるのです。
こうした力は次第に失われていき、神の名前の持つ深い作用はなくなっていきました。

後アトランティス時代の第三期の段階になると、その影響は人々が耐えられる程度のものとなり、人間を宇宙と結びつける力へと変容したのです


現在の私たちは、「私」という言葉をいかようにも話すことができますが、その言葉は私たちに作用は及ぼしません。
なぜなら、私たちの世界の把握の仕方は、死せる鉱物体によるものとなってしまったからです。

私たちは、世界を死せるものとして、無機物として把握しているのです。
しかし私たちは再び、生けるものを把握する領域へと上昇し、その領域へ立ち戻らなければなりません。

ギリシャ・ラテン期においては、鉱物に対する死せる認識を生み出すことに重点が置かれていました。
この時期に私たちは現代の合理的な知力への道を歩んでいったのです。

だからこそ私たちは、現代の単純な知性に抗する必要があるのです。
私たちは、現代の知性に別のものを付け加える必要があるのです。
 

 

 

 

自分が子どものときに、特に右手で左手をつかむ習慣があったので、
自分のことを私というのだ、ということを知りません。

太古の人類期、たとえば旧約聖書の時代に戻ると、古代の司祭は近代人よりもずっと賢くて、私たちは人間に自己意識をもたらそうと言いました。
 

彼らは人々に両手を組ませました。
これが合掌の起源です。
自分のなかに強い個我を見出すため、意思を発展させるために、自分に触れるのです。

 

 


今日では、ものごとを把握していないので、そのようには語られません。

今日、司祭は人々に、祈るために手を合わせなさいと、言います。
手を合わせることにどんな意味があるのか、彼らは知りません。

目においても、そうです。。
すべてを立体的に表象できるのは、私たちに目が二つあるからです。
私たちは、自分が宇宙の中心に立っていると感じます
だれもが自分が宇宙の中心だと感じます。
私たちに目が二つあるのには、大きな意味があるのです。