「それを世情と呼ぶのかもしれません」ワクチン論争で母親と小さな現実の事実上で負けたことを書きました。そこに関しては敗北宣言です。
ワクチンを打った90歳の母親はコロナに罹らず、ワクチンを打っていない末っ子がコロナに感染。
「ほら、打たないから感染した」と言われても、反論できません。
母親の方は帯状疱疹に罹り、その影響で片目失明。
それは私から見れば、ワクチン後遺症。
しかし、彼女は「コロナに罹らない」ためにワクチンを打ったのであり、その目的は彼女の中では今のところは全うされています。
もしも、私が「止めておきなさい」と云った通りにワクチンを打たずに、コロナに感染したら、「やっぱり打っておけば良かった」となるでしょう。
そして、打っても感染したら、「重症化しなくて良かった」となるでしょう。
死んでしまえば、何も言えませんし。
と、考えていくと、どうでしょう?
人は自分が信じた道を進むのが一番いいということになるのではないでしょうか?
自分が信じて、進んだ道なら、たとえどんな結果でも、それを良い方向で受け止めることもできます。
しかし、他人の助言に従って、不本意で選んだ道であれば、その結果に対して、被害者意識を感じるかもしれません。
助言に従って良かったと云えるのは、その助言によって、本心から納得できた場合だけです。
力づくで牛に水を飲ませることはできませんが、喉が渇けば勝手に水を飲みに行きます。
人が自由であるということは、自分軸で考え、それを実行できることです。
良いか悪いかの問題ではなく、自分で考え、納得したかどうか、納得できる行動だったかどうかがその人にとっての重要事項なのです。
今回、ワクチン未接種の末っ子がコロナに感染したことで、私にとってはこれまでの自分の反ワクチン言論について、一歩引いて考えるきっかけになりました。
それはワクチンがいいとか、悪いとかという問題ではなく、人のカルマの問題なのかもしれません。
カルマによって人は病気にもなるし、病気に罹らないことにもなるとすれば、ワクチンを接種してもコロナに罹る人も罹らない人もいるわけです。
ワクチンを打ってワクチン後遺症になる人は、そのカルマを担っているわけで、それが自分にとっての人生の体験なのかもしれません。
そして、他者のカルマについて、干渉すべきではないということです。
そのカルマを生きている人間丸ごとを尊重しなければならないのです。
人はときに、統計で騙されもします。
ワクチンを接種する回数が多いほど、コロナ感染率が高い。
これはある意味で客観的なデータです。
ところが、大事なのは、何度打っても感染しない人も実際にいるということです。
その事実は統計上の問題ではなく、カルマの問題になってくるのです。
ひとりでも死んだらワクチン接種を中止した方が良いと云いますが、ひとりでも交通事故を起こしたら車を禁止せよとはいいません。
実際には交通事故で亡くなっている数の方が多いかもしれません。
こうした問題を考えている「脳」は、「観念」で「ワクチンなるもの」「生物兵器なるもの」「車なるもの」をとらえていて、実際のワクチンも生物兵器も、車も見ていません。
データであり、統計であり、科学であるものを見ていても、生死を分けたり、発症を分けたり、運命を分ける事実は見えません。
同様にディープステートも、新世界秩序も「観念」でしかありません。新世界秩序を真の理想に近づけていけるかもしれないのに、その努力もせずに観念で拒否しているのです。
シュタイナーのいう、「畏敬の念」というのは、最も自分と反する意見から学び取るということです。その自分に反する意見と出会っていること自体が「カルマ」なのであって、相手に反論することが問題なのではなく、自分のカルマを相手の意見と出会うことで、どう変容させていけるかが「自分のテーマ」なのです。
繰り返しますが、良いとか悪いとか、どっちが正しいとかということは、度外視したうえで、その事実や人物と向き合うことで、自分に必要な体験と学びができるのが、カルマなのです。
そしてそれこそが、5次元へ向かう階梯なのではないでしょうか?
ギャーテー ギャーテー ハーラーギャーテー ハラソーギャーテー ボージーソワカ
超えよ、超えよ、観念を超えよ、波羅蜜へ行けよ、 波羅蜜多を得よ