私たちは何となく、同じ現実を共有しているように思い込んでいますが、私がとらえている現実と、他の人がとらえている現実が同じではありません。

なぜなら、現実とは内側でとらえることではじめて認識されるものであって、内側でとらえているひとりひとりはそれぞれ別の感覚を持っているし、他の人がどのような感覚でとらえているかは第三者には知りようがないからです。

 

内側と外側が出合うことで私たちは外側を認識したようでありながら、その実、内側を認識しているのです。

そして、精神世界はその逆さまの関係になります。

精神世界では私を外側に認識するのです。

 

私たちが外側に客観的事実を探そうとし、それこそが現実だと思い込むことで、内側を失いました。

内側の内面、あるいは心というものが、客観性でとらえられないことで、自信を失ったのです。

 

ですから、健康診断を受けて、それで身体の客観的データをとらえが自分の体だと思わされているのです。

 

本当は、日々自分に身体を内側から診断し、日々調整し、日々問いかけているのです。

その事実を無視して、客観的なデータだけに頼るり続けていると、自分の内的感覚を次第に失っていきます。

 

思考も同様です。自分が思い描いた思考を誰も認めないとしても、その思考は自分の紛れもない事実なのです。

 

私はずっと新型コロナウイルスは存在しないといい続けてきました。

それらが分離された証明が「客観的に」存在しないばかりではなく、そこには何か、隠された意図や、不正に操作されている印象が、内的に、直感的に感じられるからです。

私は、客観的事実よりも、まずは内的な事実、自分の内なる声を聞くことを優先します。そして、その声の命じることの意味を探っていきます。

 

そのように自分はこれまで生きて来て、それなりにうまく自分でい続けられたように思います。

社会的な成功とか、うまくいった、いかないという問題ではなく、常に自分を中心に据えていられた、内的に安定したポジションを見つけられたという意味です。

 

自分の感覚や直感を信じると、信じた分、直感が働きます。

私にとって大事なことは、外的にうまくいくかどうかではなく、内的に調和しているかだけなのです。

その内的感覚で良しとするか、悪しとするかで、私の決断が下されていきます。

計算や、有利、不利ではありません。

 

そのような方向性をもった指向をユングは内向的と呼び、外部に指向するタイプを外向的としました。関心が内側に向いているか、外の世界に向いているかということです。

 

以前、1年余り、知的障害者の福祉施設で仕事をしたことがありました。

そこでは入所している人たちはインフルエンザワクチンを打つことになります。

当然職員も、ワクチンを打つことになるのですが、私は打ちませんでした。

そして、それが強制させそうになって、私はその職場をやめました。

 

それは損得でも、有利、不利でもなく、内的感覚に合わないので、そこに居ることが苦痛になるし、いても仕方がないと思うのです。

 

嫌なものは嫌です。

強制されることも、嫌です。

自分の体について、外部的に指示される筋合いはないと思っています。

 

今までは年に一度の健康診断は受けない選択をしてきましたが、今ではそれが義務となってしまい、本当はそれさえも嫌なのですが、そこだけは妥協しています。

 

本当に嫌なものは誰が何と言おうと、嫌です。そこに妥協の余地はありません。

それでどれだけ不利になっても、目を瞑って従おうとは思いません。

もしも、そうするならば、自分は自分の主体を明渡すことに同意したことになります。

 

そして、ワクチン接種はまさに、主体を明渡せと云っているように、私には感じられます。

「肉体から魂を切り離してやるぞ、そして魂が切り離された人間となって、従え」と云っています。その声は私の内的事実なのです。

 

以前、転載させていただいた、「ワクチン未接種」を称えるトリビュートをもう一度、最後に転載します。

ここには、まるでヒーローのように賞賛されていますが、私としてはその賞賛には少し、否定的です。賞賛されるようなことではないと思っています。

なぜなら、そんなわけの分からないワクチンを打つ方が、異常であって、なぜ内的感覚で、それをとらえ、拒否しないのか、それが不思議だからです。

 

私は以前は、家族を説得するために、その危険性を証明する資料を集めて送ったこともありました。

しかし、それでも母親はワクチンを打ちました。一度は納得して打たないと云っていたのにかかわらずです。

 

そのことから、私は学びました。

客観的事実で人が判断などしていない。回りの雰囲気や、外目を気にして、回りと同じ判断で安心したいだけなのだと。

 

そこには客観的な事実も、内的な声の真実もありません。どちらもないのです。

どちらも重要でない人が、仮に親であっても、存在しているというのが、私にとっては驚きでした。

 

しかし、そのような判断をする人たちに、何をどう説明しても、説明しなくても、同じなのです。

そこに救いはありません。

まさに、村上春樹の小説、1Q84のセリフ「説明しなくてはわからんものは、説明してもわからん」なのです。

 

 

一瞬は、ワクチンを打ってしまった母親にも、すこしイラっとしましたが、それも、別の意味として私は納得しました。

私が救いたかったのは、母親の命であり、自分の主張を認めさせることではありません。

愛が前提で、私は可能な限りの説明はしたのだから、それが受け入れられないとしても愛を失う必要はない。と気持ちを入れ替えました。

 

全てのことは「愛」が前提であるなら、誤解や無理解があっても、それで前提である愛が変わることはないはずです。

 

そして、それが仮に私からは無理解に見えても、それぞれの選択は、やはり魂の選択であり、生まれる前のシナリオなのだと思うのです。そこに私は干渉することはできません。

 

90歳を過ぎた母親なので、好きに、回りに合わせて安心できるのなら、それもひとつの選択なのです。1年長生きしようが、半年命が縮まろうが、そこが大きな問題ではないのです。

まして、90歳でワクチンで肉体と魂が切り離れされようが、もうじきj自然に肉体から魂が離れてしまいます。ワクチン接種さえ冥土の土産なのかもしれないですから。

 

🔆 「ワクチン未接種」を称えるトリビュート

フランスのクリスチャン・ブランション将軍は、あらゆる方面からの非人間的ともいえる巨大な圧力に耐えて、ワクチン未接種の人々の並外れた功績に「敬意を表する」メッセージをフランスの新聞に掲載した。

彼の「賛辞」はその後、コロナ時代に中傷され、疎外され、攻撃されたすべての人々に「ふさわしい信用」を与えるものとして、世界中で大量に翻訳され、共有されています。これは、クリスチャン・ブランション将軍の、ワクチン未接種者に敬意を表してのメッセージです。

「そこにいる、そばにいる、普通に見えるけど、スーパーヒーローなんだ」

たとえ私が完全なワクチン接種を受けていたとしても、配偶者、親、子供、友人、同僚、医師などからの最大のプレッシャーに耐えるワクチン未接種者を賞賛します。このような人格、勇気、批判的思考ができる人は、間違いなく人間の最良の部分を体現している。年齢層、教育レベル、国、意見を問わず、どこにでも存在する。

彼らは、特別な存在であり、光の軍隊がその隊列を組むことを望む兵士たちです。

彼らは、すべての子供が望む親であり、すべての親が夢見る子供なのです。

彼らは、社会の平均を超えた存在であり、あらゆる文化を築き、あらゆる地平を征服してきた民族の本質なのです。

彼らは、あなたと一緒にいて、あなたの側にいて、普通に見えるけど、スーパーヒーローなんです。

彼らは、他の人ができないことをやり、侮辱、差別、社会的排除のハリケーンに耐える木となったのです。

そして、彼らは自分たちが孤独だと思ったからこそ、それを実行したのです。

家族のクリスマスの食卓から排除された彼らは、こんな残酷なことは見たことがなかった。職を失った、キャリアを手放した、お金がない...しかし、彼らは我慢した。計り知れない差別、糾弾、裏切り、屈辱を受けた。...それでも、彼らは揺るぎないものでした。

人類の歴史上、このような「キャスティング」が行われたことはありません。私たちは今、地球上のレジスタンス戦士が誰であるかを知っているのです。女、男、老人、若者、金持ち、貧乏人、あらゆる人種、あらゆる宗教、ワクチン未接種者、見えない箱舟に選ばれた者、すべてが崩壊したときに唯一抵抗することができた者たちです。

彼らは、多くのタフな海兵隊員、コマンドー、グリーンベレー、宇宙飛行士、天才たちがマスターできなかった想像を絶するテストに合格した人たちなのです。

「君は、歴史上最も偉大な人物から生まれたヒーローだ。普通の人々の中に生まれた暗闇で光るヒーローだ」

 - Gen. Christian Blanchon (08.09.2022) -

https://t.me/schoepferinsel/4112

 

 

長い間飲み続けてきたお酒を1年5カ月前から断ちました。

これなども、内的直感でしょうか。