昨日書いた記事に次のように書きました。
サクメ・Samech(肉体)
ヲウ・Waw(エーテル体)
レシュ、Resch(アストラル体)
タウ・Taw(自我)
666は自我、アストラル体、エーテル体、肉体を意味しているだけで、けっして悪しき存在ではなく、人間の真の姿です。
しかしながら、それが逆に働くことがソラトなのです。
私たちは、このソラト、666を通じて、次の新しい世界へ向かいます。それがコロナのある世界からの出口です。666=3×6 ミロク、弥勒、5次元世界です。
投稿したあとから、これは、あまりに難しすぎて、到底、「コロナのある世界からの出口」など、見つかりそうもないと、思い至りました。
なぜなら、ひとりひとりが、難問と取り組む必要があるからです。
そもそも、そんな難問を問うこと自体をできなくされてしまった今日の人間に、その難問を解けというのは、いかにも矛盾しているわけです。
だからこそ、聖書の作者は、「知恵のある者は解け」と云っているのであって、知識はあっても知恵を奪われた現代の人間に、666の秘密を解こうと、自分に課題を与える人間がどれほどいるのでしょうか?
シュタイナーは、若い頃に人生について悩んだ人はボケないと云いました。
あるいは、難解な本を読むことを勧めていました。
難解な本を読むという意味は、その文章を理解するためというよりも、脳を鍛える意味があります。ちょうど、幼児期にリアルな人形を与えてはいけないと云っているのと同じです。
幼児期はファンタジーによって脳が形成される時代です。
そのときに、リアルなお人形を与えては、イマジネーションが膨らみません。
目として黒い点をつけただけのお人形を与えると、子どもはいかようにも、その人形の表情や表現をイメージすることができて、そのことが脳を発達させるのです。
漫画やアニメ、バラエティーがいかに脳を破戒しているかは、その裏返しです。
難解な本についても、はじめは理解できなくても、それに関する本を何度も読んでいくうちに、次第に核心へと近づいていくことができます。
なぜなら、表面的な意識で解釈するのではなく、無意識の中で次第に熟成していくからなのです。
私にとってはシュタイナーやユングの本こそが難解な本でした。100冊近く読んだと思います。
そして、シュタイナーに関しては今はほとんど読むこともなく、手元に本もありませんが、ブログのなかに、自分の記憶しているシュタイナーの言葉が出てきます。
ワインが熟成していくように、真の書物は読んだ記憶だけでなく、内面で、精神領域で熟成していくのです。
スポーツ選手がトレーニングしているそのメニューは、生産的な労働でも、肉体的虐待でもありません。くり返し訓練することで筋肉や機敏な動きが身に付きます。
書物も情報の伝達という意味では労働や虐待のような意味と時間の浪費にしか見えません。
しかし、脳を鍛えるのに、これほどのエクササイズはありません。訓練を積まない人間がプロスポーツ選手やオリンピック選手になれないように、私たちも訓練した脳を持たない限り、エリートたちには立ち向かえません。
エリートたちはけっして医者が処方する薬など飲んでいません。
ホメオパシーを利用しているのです。
シュタイナーやオカルトを理解しているのです。
だからシュタイナーやホメオパシーを知られないように攻撃しているのです。
そして、そのような前提があって、準備が整ってこそ、666は解釈され、その意味が昇華されていくべきなのです。
666は二面性をもっていて、一面では悪魔の大将でありながら、そこには神を讃える、神のコマーシャルの役割を担っています。
太母神的元型でありながら、トリックスターなのです。
そしてその悪魔的な力が人間の進化にとって欠かせないという事実です。
ですから、悪を恐れ、避け、陰で攻撃しているだけではいつまで経っても出口は見つかりません。
悪の上手(うわて)を行かねばならないのです。
私たちにとっての唯一と云っても良い手掛かりは、私たちが生れてくる以前に、私たちが描いたシナリオを思い出すことです。
そこには、悪魔も、ワクチンも、自分の魂の成長に必要な通過点として位置づけられているはずです。
そして、その通過点を通過して、どこに行こうと思い描いたのか?
たとえ思いだせなくても、私の深いところには、そのシナリオが眠っています。
そして、それを信じること、そこに出口があるのです。