「空を飛べなかったツバメ」と「ほっこりするね」の著者のふじもとじゅんこです。

 

我が子へ本の読み聞かせをし続けた8年間が物語づくりの糧になりました。

 

たくさんの方に「ふじもとじゅんこのブログ」を読んでいただいていることにとても感謝しています。

ありがとうございます。

 

今日、図書館で一冊の本を借りてきました。

その本というのは、タイトル「児童文学の教科書」で、その内容の一部に「リアリズム=日常・家族・学校・友情・人生」について書いてありましたので、その内容の一部をここでご紹介させていただきます。

 

『児童文学でいうところの「リアリズム」とは、主人公である子どもの日常生活をありのままに写実的に描いたものをいい、家族の一員であるペットの動物との交流を通して、主人公が種を越えた友情を育んだり、生命と死のあり方を学んだり、自然の厳しさを体得したりする物語もリアリズム児童文学のなかの一グループとして考えられる。・・・』

 

私はこの文を読んで「リアリズム児童文学」という言葉に触れ、改めて児童文学について学習をし、いろいろなリアリズム文学といわれるところの物語も読みました。1960年代「児童文学タブーの崩壊」と呼ばれ、社会的リアリズムを求めた児童文学の作家たちが社会のなかにおける子どもたちに迫ろうと努力し、それまで児童文学のテーマになりづらかった「離婚」「死」「闇」「性」などが新たに浮上してきました。現代では「家族とはなにか」という大きな問題に直面し、シングルマザーや離婚家庭、再婚家庭、あるいはメンバーはそろっていても崩壊した家庭なども描かれ、そのなかで生きる子どもたちの現実をとらえようとする物語も多くなってきているといわれています。

児童文学の歴史をさかのぼれば、17世紀~18世紀、イギリスの児童文学の出現から多くの児童文学女流作家が誕生し、彼女たちが書く物語は、子どもたちに、つつましさと従順を説き、勤勉に働くことをすすめ、父を崇め、母を尊ぶことを教えるものであったとされています。

児童文学にできることは、人生とことばについて肯定的なイメージをつくることだとも「児童文学の教科書」に書いてありました。

私は、イギリスの児童文学の原点を見つめ直す意味で、日常、家族、学校、友情、人生において傷ついている子どもたちの心の拠りどころとなるような心の温もりを物語を通して子どもたちに伝えていきたいと思っています。

私は今、幅広い世代に向けての児童書を書いていますが児童文学についての知識があまりなかった私が児童書を書くことに目覚めた瞬間は蛙の鳴き声でした。蛙の声といっても、そのとき、蛙の声が聞こえてきたのではなく、遠い昔の幼かった自分の耳に響いた蛙の鳴き声の記憶が蘇った瞬間、物語を書こうと思ったのです。私が幅広い世代に向けて児童書を書こうと思ったいきさつは、2016年9月28日のブログにも綴っているのですが、私は母との思い出を物語にすることで我が子に何かが伝わるのではないかと思い、2005年から物語を書き始めました。ゆめこの物語の第1弾の「空を飛べなかったツバメ」の中に蛙の鳴き声が響き渡る一節があります。その一節というのは 55・56・57ページで

 

今日は、 お母さんが 朝から 家に います。

今、お母さんは、 家の前にある 田んぼで 仕事を しています。

 

大好きな お母さんが 家に いる時、

ゆめこちゃんの 心は、 とても はずみます。

 

ゆめこ「ただいまー! お母さん ただいまー!」

「おかえりー」

お母さんは、深く かぶっていた 麦わら帽子を

浅く かぶりなおして ニッコリします。

 

ゆめこちゃんの 家の周りの田んぼは 

稲の苗が 青々としてきました。

少し 強い風が 吹くと その田んぼは 

波のように 見えます。

雨が 降り始めると たくさんの蛙が 

声を そろえるように 鳴き出します。

家の周りは、蛙の声で 

とても にぎやかに なります。

 

IMG_20170930_123348.jpg

 

 

「空を飛べなかったツバメ」の物語は、この一節から始まったのです。

幼い頃、時折、強く吹く風に髪をあおられ、賑やかに鳴く蛙の声を聞きながら、縁側で仕事から帰ってくる母を待ちわび、切ないほどに母を慕う自分がいました。

その心の内を物語にしてみようと思った瞬間でした。

物語を書く上で言葉選びは大事な工程で、私は数多くの児童書を読んで言葉を学ばせてもらい、愛用の国語辞典で知識を深める努力をしてきました。

ここで愛用の国語辞典にまつわる話をさせていただきます。

私は高校時代、保育科の授業で紙芝居制作をしました。その頃、絵を描くことが好きだったので、私はオリジナルの絵本を作ってみたいと思った時期があったのです。でも、その夢はいつしか遠くに追いやられ、社会人になったとき、勤務先の銀行から入行祝いとして、一冊の国語辞典をいただきました。このことが今の私の物語づくりへの架け橋になったように思います。

私にとって、その国語辞典は知識を深めるための大事な参考書でした。事あるごとに辞書を開いている自分がいました。その国語辞典は40年経った今も愛用しています。

また、私は数多くの児童書を読んできたと申しましたが、それは自分のためではなく、我が子のためでした。我が子が4才と1才の頃、私は近くの公民館に併設されている図書室に二人の子どもを連れて毎日のように通っていました。一日に15冊ほどの本を借りては子どもたちに毎日のように読み聞かせをしていました。それから、3年後、町に大きな図書館が開設され、設備の整った広々とした館内へ二人の子どもたちを連れて出掛ける日々を、おおよそ8年間楽しんできました。

今では、これまでの子どもへの本の読み聞かせが私の物語づくりの糧になっていると思います。

親が子どもを育てるというのはごく一般的なことですが「子どもが親を育てる」という言葉もあります。私には二人の子どもがいますが、子育てで自分が子どもに育てられたと思っています。この有難い子どもたちとの巡り合わせに感謝し、これからも自分にできることを精一杯していきたいと思っています。

 

私は、物語の役割を考えるとき、現代の子どもたちに通底する不安や悲しみ、戸惑いや恐れ、出会いや喜び、抱えている希望を子どもたちがいろいろな物語に触れることで、それらの物語は生きるためのエールをおくることになるのではないかと思います。

そう思う私は、エールをおくれるようなメッセージ性のある物語や児童文学でいうところの「リアリズム」に近づけていけるような、普遍的、且つ、おもしろさを取り入れた物語を書いていきたいと思っています。

これからもゆめこシリーズ完成への夢を追いかけ、子どもから大人の方まで幅広い世代に読んでいただけるように精一杯、努力して書いていきたいと思っていますので応援よろしくお願いいたします。

 

 

このブログを最初から読んでくださった方 ありがとうございます。

私の思いを精一杯、綴ったページを読んでくださった方が「ほっこりするね」を手に取っていただけることを心から願っています。