すべてが「愛」であり
一体であると感じたワンネスの体感の経験を書きました。
(覚醒体験・一瞥体験)


今回は
その体験前後によく読んでいた
「十牛図」のお話をします。

さらに
覚醒体験のその後を書きたいと思います。


後編


​十牛図

覚醒体験の前後に、

「十牛図」を読み返して「悟り」について学んでいました。


「十牛図」

禅において、人が悟りを開いていく過程を、

絵を交えて10段階で表現したもの。

悟りを牛に例えています。






当時見ていたWEBサイトが無くなっていたのと、

参考にしていた資料も捨ててしまったので、

概要がわかりやすいものを参考程度に載せておきます。



十牛図とは




また、まだ読み切っていませんが、

最近十牛図の本を買って復習してます。


↓スピリチュアル色がない禅の教科書本でした。




十牛図の八番目は「人牛倶忘」。

人と牛が消えてしまい、「無」の世界があります。

一つの円で表現されています。





こちらの価値観は

ワンネスに近いと感じました。


ワンネス体験の時とは少し違って、

さらに「自我」が消えている状態かなと思います。



当時読んでいた解説文で

最も印象深かったのは、


「悟った自分さえも消えてしまう」

という言葉です。





何もない。

無の世界です。



ワンネス体験の前か後、どちらか失念してしまったのですが、

この無の世界もひたすら感じていました。




なんとなく、

津留晃一さんの

「自他一体」の価値観は

この領域の感覚に近いと思いました。




余談ですが、

アニメ・エヴァンゲリオンの旧劇場版のクライマックスが、なんとなくこの感じに似てるなぁと思いました。

※結構ネガティブでグロテスクな作品なので、

今から見るのはオススメできません不安




人間の境界をとっぱらい、物理的にも精神的にも、

「液体」のように人々が一つの状態になった世界。

そこで自我を保っている主人公。



どこまでが自分で、どこからが他人なのか分からない曖昧な世界。どこまでも自分で、どこにも自分がいなくなっている静寂な世界。いいえ、全てがひとつになっているだけ。」



この言葉は、かなり感覚的に

無の世界に近いなぁと感じます。



物質だけではなく、

「自分」という自我さえも曖昧になっていきます。





ワンネスは圧倒的な「愛」の体感でした。


一方、

こちらは

「無」という感覚でした。



どちらも同じ領域から来ている感覚であるような気がしています。



至高体験が長期間だったのですが、

これらの状態とも行ったり来たりしていたように

感じます。





覚醒前後の時間感覚については

(自我の働きを落としていたからか?)

かなり曖昧です無気力



はっきりとしているのは、

「圧倒的な愛の体験である至高体験があり、

それが長期間続いていた」という記憶で、

その前後の断片的な記憶を

繋ぎ合わせています。




少し思うのは、

私の場合は

"禅の悟りのような感覚、ワンネスの感覚"について、


「覚醒体験をしたから知った」のではなく、


「知っていたから、覚醒体験をして

"感じた"」


のではないかと言うことです。


もちろん、

覚醒体験をして知ったと感じる方もいると思います。



私の体験については、

頭では知っていたことについて、

感覚的に理解することができた。


ただ"感じた"


という表現に近い気がしています。



禅の十牛図では、

悟り(仏の心)は「その人の心の奥にもともとあるものである」

という価値観になっています。



ワンネスもそうだと思います。


もともと私たちの心の中に眠っているもので、

ただ

「思い出すもの」

「内側から現れてくるもの」


なのだと感じています。





覚醒後の生き方​


以前記事にも書いたのですが、



至高体験が落ち着いてきた頃、

自分がこれからどのようにして生きていくか。

私は選択する必要があると思いました。



「本質的には自分しか世界にいない」と気付いたため、

何かをするにも虚無感が出てきました。



それについては以前記事で書きました。



十牛図の第十番目、最後の状態は

人里に降りて、社会生活を営むことです。




最終的には、

私もそのように

元の生活に戻ろうと決めたのでした。


社会生活を送ろうと思い、

まずは子どもと接する短期間のアルバイトから行いました。




​覚醒後の現象化の変化


「すべての物事に優劣はない」

「すべての物事に意味はない」

と感じるようになりました。


時間や空間も幻想であることに気付いたためか、

現象化の質が変わりました。



例えば、

天気が自分の意図どうりに変わってしまったり、

物理的に届かないと思っていたコードが伸びていたり、

欲しいと思った物が数秒後に机に置かれているのを見たりしました。



あまり現象化に動揺しなくなり、

気持ちの浮き沈みがほとんどない状態でした。



現象化がおこっても「当たり前」という感覚

(ただ、観察している?という感じかも)


「ただ、浮き出てくる」という表現がぴったりでした。





再び自我に​働いてもらうことに


アルバイト中は、

日常生活に支障がない程度に、

自我の働きを落として

覚醒時の感覚を感じながら

働くことができました。





本格的に仕事をすることにした時、(事務職に戻る)

現象化により、書類に書いてある日付が変わってしまったことから、



自我(エゴ)の働きを強めて、

覚醒の精神状態から抜け出して生活する選択をしました。


その内容は、この記事にも書きました







​日常生活と覚醒の精神状態を融合させる


その後は、

結婚、妊娠、出産を経て

仕事を辞めるまではエゴによる思考中心の生活をしていました。


子育てと同時にエゴが強くなりすぎたため、

再び覚醒の感覚を思い出すことにしました。


覚醒の感覚と、日常生活をうまく融合させて、

自分にとっていいバランスで

今は過ごしています。



しかし、

エゴと覚醒の感覚の統合は

終わりがないのかもしれないと感じます。




覚醒・目覚めを経験しても、

観念を手放したり、統合していく過程は

続いていくものだと思います。



私も一時は

「私はもう悟ったんだ!」と驕る気持ちに

なってしまったことがあります。

(お恥ずかしいですが魂が抜ける



悟ったとしても、終わりはないのです。



悟り(覚醒)の感覚に留まり続けることもできます。

それにも、価値はあることです。



ただ言えるのは

悟ったからといってすべてがうまくいく、

学びに終わりを迎える。

特別な存在になる。

完璧になる。

といったことはないということです。



これらも、私の主観で書いていますので、

「私の感じ方」に過ぎません。


確かなものなど、

この世に何一つないと思っています。



だからこそ、

今この瞬間が

最も尊く、美しく、素晴らしいものであると、

そう思います。


たとえどんな状態であっても、

どんな人にとってもです。



これを

読んでいる人が

「自分という存在の素晴らしさ」を

感じてくれたら嬉しいなと思いますし、


同時に

そう感じることがないとしても、

それがとても尊いことだと思います。




この体験談を

一つの読み物として、


面白いな〜!

こんな人もいるんだなー!


といった軽い感じで楽しんでもらえたら

とても嬉しいです!



以上タコタコタコカエル