「義山楼」(ぎやまんろう)は平成16年11月に完成した建物です。
この「義山楼」の「ぎやまん」という文字はあまり耳慣れない言葉ですが、江戸時代に使われていた「ギヤマン」の当て字だったのです。硝子は古くから玻璃(はり)・瑠璃・ギヤマン・ビードロなどと呼ばれていました。それを展示する施設なので「義山楼」と命名した訳です。
まずはじめになぜ夢二記念館が夢二と一見関係がないガラスを展示する施設を建設したのか、その辺からお話を始めてみたいと思います。その発端はもともと平成7年に開館した「夢二黒船館」の建設途上にまで遡るのです。「夢二黒船館」の様式についてはいろいろな構想がありました。しかし、何といっても夢二の絵を飾る建物ですからそれにふさわしいことが第一条件でした。
そして、照明器具も現代のものでなく、大正時代に作られた、しかも和物がふさわしいということになったのです。着想は簡単ですが、いざ実現するとなると様々な困難が伴いました。現在、この世に残っている大正時代の照明器具は極めて少なく、全国を歩いて探さなくてはなりませんでした。ですから、時間もお金も想像以上かかりました。途中で何度もあきらめようと思ったか分かりません。でも執念というものは恐ろしいものです。まるで何かに取り付かれたように夢中でした。その結果、自分で自分の首を絞め、値段が暴騰したりしていろいろな障害も生じたのです。
こうしてなんとかかんとか目的を果たすことが出来たのですが、和物の硝子を追い求めているうちに、私の心に大きな変化が起こったのです。それまであれほど魅力を感じていた西洋のガラスにどうしたことか、すっかり熱が冷めてしまったのです。それも生半可なことでなく、今ではお金を付けてあげるからと言われても欲しくない…そんな変わり様です。
なぜこうなったのか、考えてみました。そこで分かったことは日本のガラスには日本人でなければ絶対表現し得ない色と形と質があり、その親しみやすさ、微妙な温かさ、美しさはまた日本人でなければ味わえないものだったのです。日本人が何千年もかけて培ってきた和の心がそこにあったからだと思います。
そこで、あらためて身の回りを見回してみるとガラスばかりでなく、なんと日本人が作り出したありとあらゆる和物にそうした深い味わいがあったではありませんか。
夢二が遺した芸術も私たち日本人がどうしてこんなに強く引き付けられてしまったのか、その謎がそんなとこにあったことに、長年かけて、やっと気づかせてもらったのです。ところですごく突飛とも無謀とも思われるかもしれませんが、私は「夢二の芸術を和という切り口で何とか形として表現してみたい、それも美術館という建物で」という想いにいつしか囚われてしまっていました。考えに考えた末に到達した結論が「義山楼」の建設だったのです。
「夢二の作品を一切置かずにそこに入ると夢二を感じられる空間」そんな建物を夢見てその構想を練りました。