先日『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』を観た。



この作品は前作の主人公であるチャドウィック・ボーズマンが大腸癌で亡くなったため、作品の製作に大きな進路変更を余儀なくされている。

完成された続編となった本作はボーズマンに追悼を捧げる作品となっていた。

そうした追悼という文脈を抜きにしても映画としての完成度とか、メッセージとか沢山凄いところがあって感動したのだけど、それと同等、いやそれ以上にボーズマンに対する追悼のエネルギーが凄まじかった。映画を見終わってしばらく座席から立てずにいて、感想もVoicyで収録したけど上手く話せなかった。それくらい"追悼を捧ぐ"という形の作品の中でも類を見ないエネルギーに昇華されていると感じたからだ。

チャドウィック・ボーズマンは2020年8月に43歳の若さで亡くなっている。死ぬにはあまりに早い。43歳という年齢は最も仕事盛りなフェーズであり、まさに「これから」という状態ではないだろうか。大往生をした人を追悼するのとはあまりに雰囲気が違う。「ボーズマンともっと仕事をしたかった」「ボーズマンと作品を一緒に創りたかった」という無念さが映画の中で感じられるのである。

だからこそ創り手たちはボーズマンとしっかりした形で別れを告げないといけない。ボーズマンへの気持ちを作品にすることで表明しなければ俺たちは前に進めないんだと言わんばかりに。そうした気持ちや念のようなものが作中に異様なほどに感じられた

人はいずれ死ぬ。逃れられない死。しかしそれがあまりに早いタイミングで訪れると人は困惑する。
早すぎるという想い、もっとこの人と一緒にいたかったという想い。様々な形で現れるだろうが、今回の作品の中では「もっとあなたと一緒に創りたかった」という気持ちが推進力になっているようだった。だからこそシナリオを大きく変更し、ボーズマンが亡くなったということを入り口に作品は進んでいく。それをなかったことにしない誠実さで進めていくことがこの映画の大きな魅力になっているし、推進力のようなものになっていると感じる。だからフィクションの作品ではあるけど、フィクション性を強く感じない。この抗えない死を迎えて、これからの現実をどう生きていくか?という表明を作品の中でしているような感覚を覚える。"この作品はフィクションです"という但し書きがこの作品には似合わない。受け入れられない死を受け入れて進めていかなくてはいけないんだという決意表明や宣言にも思えてくる。フィクションと一言で片付けられないドキュメンタリー性を帯びている。

この映画には人が亡くなる時に葬式などでは昇華することが出来ないような感情、まさに作品として描くことでしか成仏が出来ないんだと言わんばかりの感情を垣間見ることができる。逆に言えば葬式には果たすことが出来ない追悼の役割を担っているとも言えるだろう。

話変わって私は20歳の時の母を胃ガンで亡くした。その時の親父のスタンスが印象的だった。
親父はホスピスで母の死を確認すると、すぐに葬式の準備をし始めたのだ。

私は内心「えっ!?」と思った。こんなに悲しい気持ちに持っていかれているのに、気持ちを切り替えてすぐに葬式の準備かよと。

親父はしっかりと「死」に対する感情を割り切っていたのか、冷静に、淡々に葬式を執り行う段取りをしはじめた。友人、知人、親族に淡々と連絡をし、葬儀屋を決める親父は大人だな、と思った。と、同時にあまりにも流れが「段取り」だったので、親父に対してもどういう気持ちで接していいのか分からなくなっていた。

葬式を終えて、親族に挨拶をする場面。親父がマイクを持つと
「あなたの顔が好きでしたあああああああああ」と言って、泣き崩れた。

私は「えええっ!」と思った。ずっと感情を抑えてきた親父が、感情が決壊したことに加えて、マイクで喋ることがそれかい!という突っ込みもありつつ。

今、振り返ると納得が行く。誤解を恐れずに言えば葬儀は「段取り」だ。
喪主として段取りをすぐに決めていかないといけない。


だから段取りが滞りなく終えた時に、初めて親父は妻が死んだということを受け入れたのだろう。
その時間差でやってくる感情は葬式が"やらなくてはいけない段取り"であるということに他ならない。
親父が泣き崩れたことは葬式が無事に滞りなく行われたこともまた安堵感としてやってきたのではないか。

私も葬式だけでは感情に決着がつかなかった。mixiに想いを綴ったり、大学の課題作品の中で母のことに触れたり。どうにかして自分なりに成仏をしなくてはという感覚があった。しかし何も決定的に弔いにはならなかった。葬式はなんと言っても暗い。母の明るい雰囲気からは程遠い。皆が黒い服を着て、お経というサウンドは聞いていても母は喜ばないだろう。

私が母に弔いになったと思う出来事は日常だった。特に草なぎ剛とプロレスをしたことは相当喜んでくれたのではないかと思う。母は相当なミーハーで、ちゃんとSMAPも好きだったから。だから『俺の家の話』で長瀬智也と一緒にプロレスを練習したと言ったら狂喜乱舞していたに違いないのではないか。儀式として弔うことよりも、日常でミーハーなことをきちんといい報告が出来ることが結局のところ最大の弔いだなあと感じる。だからきっと母は喜んでくれているだろうなと感じている。

だからこそ『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』のように葬式とは違う形で、きちんとブラックパンサーの続編を作ることがチャドウィック・ボーズマンへの最大の弔いだったのではないだろうか。きちんと続編を作るということ、続編にボーズマンが亡くなったこと、そしてその意思を継いだ形を作品として作ることが。それがハリウッドの、マーベルスタジオという大きな規模で行われたことがエネルギーになった。だってマーベルが続編を作ることは"日常"だから。エンドゲームが終わって、次の稼ぎとなるシーンを創るという日常。映画館で流し、ディズニー+ですぐに配信に回すという日常。

葬式では弔いにならないことがあり、日常だと伝えられることがある。日常には死者に伝えたいことが沢山潜んでいる。
誰かが亡くなって、誰かが意思を継義、バトンを渡して生きる。
そういうことが繰り返されて、私たちは生きているのではないだろうか。

葬式だけでは伝えられない。結局のところ、残されたものたちは懸命に日常を過ごしていくしかない。
そんなことを凄まじいエネルギーで伝えてくれる『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』は最高のマスターピースでございました。