『トップガン マーヴェリック』をようやく見れた。


楽しみにしている映画を公開初日に観に行けたりする余裕がなくなったり、しっかり前作を復習したくなったり。


劇場は500人収容がほぼ満員だったよ。





何度も落涙しました。

前作のノスタルジー的なサムシングが凄い。小橋建太がノア東京ドーム大会で、テーマ曲をグランドスオードに変えたことがあった。人はあの曲の小橋と、あの時代の小橋の試合に熱狂していた。だからあの曲に戻ったときに、そういう記憶がわーっと蘇ってこれからとんでもないことが起こるのだと、あれこれ想像するわけだ。そういうプロレス者が刺激されるような要素が多分に本作には散りばめられている。


語られている冒頭5分のほぼ前作の再現っぷりもそうだけど、やっぱり約30年の実際の時間経過というものが否応にも、トムクルーズ演じるマーヴェリックの魂を次の世代に渡していくというものとシンクロするのだよね。


それはほとんどスタローンのロッキーとクリードの関係とほぼ同じなのだけど、それにしたってトム・クルーズは異様に若いということになる。スタローンはちゃんと老スタローンというビジュアルだもの。


僕が生まれた年の次の年、1986年に公開された映画の続編だから、すなわち僕が産まれて、今に至るまでの時間がまるまる時間経過になっているわけである。そりゃあ凄い。


当たり前だけど、それだけの時間なので、亡くなる人はいるし、子供だった人は大人になっているし、老いていたりする。そういう時間経過をしたときに、魂なり、何かを次の世代に伝えていくというのはこれでもかと大事な儀式なのだと思わせられる。それは映画という作品単位のものでもそうだ。だから前作のトニースコット監督が亡くなった後に、監督の意志をどう継いでいくかみたいなのも見え隠れしている。だからそういう継承をしていくということが、作中の出来事も、制作者たちにも同じことが言えるくらいにリンクしている。そして見ている僕にも時間経過を感じている。


本作の中には前作の中で死んだ仲間のカットバックや、かつてライバル的にいた仲間が老いていたりとそうした時間経過をトム・クルーズを中心に思い巡らされる。トム・クルーズは異様に元気なので、老いることの楽しさや悲しさのようなものを受け入れられないようにも見える。トム・クルーズはずっとトム・クルーズでいなくてはならないという矜持をビンビンに感じてしまった。"レジェンド"としての登場を拒むような何かである。三浦カズでさえ現役ではいるものの老いとの闘いは見る側に伝わっているが、トム・クルーズはそれがない。時間経過のノンフィクション的な動きでさえ、トム・クルーズはフィクションを生きているかのよう。


とにかく見ている者にそれぞれの時間経過をガツンと与えてくれる作品であることは間違いない。ロッキーやランボーのようにナンバリングで老いてきたスタローン作品のそれとも違う。だからトム・クルーズは映画から卒業しないまま走ってきている凄味があるなあと思った。


前作のヒロイン、ケリー・マクギリスは出ていなかった。一部誌面によれば、太ってしまってお声がかからなかった的なコメントをしていたらしい。


それでもマーヴェリックと前作の違いはケリー・マクギリスの存在だなと、私は感じた。刑事ジョン・ブックでもそうだったがケリー・マクギリスの視線が否が応でもその色恋のストーリーを予感させてくれたからだ。出演しなかったことで、守られたものもあるのだとも感じる。









この作品を観て、私も老いていく時間の流れの中で、何を受け継ぎ、語り継ぎ、それを誰に伝えるのか。考えていきたいと思った。


なんて喚起力のある映画なのだろう。それ以前にもうめちゃくちゃ面白い映画なので、次はIMAXで見よう。