元バイト先の映画館で『ファイト・クラブ』を観た


イオンシネマ多摩センターで、午前10時の映画祭のプログラムに加わっていた『ファイト・クラブ』を鑑賞した。感激である。


大学時代にイオンシネマ多摩センター(旧ワーナーマイカルシネマ多摩センター)で2年ほど映写のアルバイトをした。もう当時はゴリゴリに映像を浴びていて、将来は映画監督になるものだと思い込み、浴びるように映画を見るために、バイトをしていた。それはもう映画のタダ見が出来るからである。


当時はまだ35mmフィルムだったので、設置や予告編の編集なども映写のバイトがやらなくてはならなく、時給750円にしてはかなり大変だったのだが、映画がタダ見できるので、元はとっている感覚はあった。要は楽しくバイトができた。


ファイト・クラブの劇中の中で、タイラー・ダーデンが映写の仕事をしているシーンがある。家族向けのアニメの中に一コマだけポルノのフィルムを入れているタイラー。サブリミナル効果によってアニメを見ている子供が泣き出すシーンだ。あのシーンで映写のバイトに少し憧れた。実際にバイト先にはこのシーンが好きで入っていた先輩もいたくらいだ。


何はともあれ『ファイト・クラブ』だ。当時、DVDを買って観た。町山さんの解説なども読み漁り、その世界観、メッセージに陶酔していた。




物質主義を批判し、殴り合いをすることで生きる心地を浴びる男たち。

物質に支配されている、あなたの着ているものも、財布もお前の価値ではないとタイラー・ダーデンは語りかけてくる。刻々と死ぬまでの時間は迫っている。ではあなたは何をすべきかと問うてくる。


そうした価値観は自分に大きな影響を与えてくれたように思う。

ブランド物を持ちたいわけでもないし、ゴージャスな北欧家具が買いたいわけでもない。

今、プロレスをしているのも直接的に痛みや喜びをダイレクトに感じられるからやっている側面もある。(人間として生を感じるためにやる手段としてプロレスをするという選択もありだと思う。)

そうした『ファイト・クラブ』を自分なりになぞるような生活をしていたりするわけだが、

もちろんブラピがカッコイイとか、映像、音楽がカッコいいとかはもちろんありながらも、無意識の中でファイト・クラブの影響は間違いなくある。そういう作品なのだ。


まあ、そんな作品が自分がバイトをしていた映画館でやっているというのだから、観に行かないととなった。

スクリーンで見るのは初めて。もうどんなシーンが来るか分かっているのに、観る側に覚醒させてくるようなメッセージは劇場で観ることでよりマシマシに感じた。


改めて映画館で観ると刺激的な原作を、フィンチャーは見事に映画化したのだなと感じた。

原作の下に映画があるのではなく、上に映画がある感じ。


エドワード・ノートンの一人称によるナレーションが、映画の推進力になっている。そしてブラッド・ピットのカリスマ性だ。

”こういう男でありたかった”という形を具現化した姿。そのカリスマ性を醸し出すビジュアルがスクリーンでキマりまくっていた。

20年以上も前の映画ではあるが、その色褪せなさはシンボルとして健在していた。


プロジェクト・メイヘムは経済を均衡させるための一つの手段。高層ビルを爆破するというのはビルの高さに富裕層としてのメタファーもあるのだろう。そうしたことを崩すことで、人間の本質を見直させる行為だ。ラストシーンは映画館で観ると壮観で印象的なものでした。


より感じたのは、この物質社会批判はそのままSNSにも言い換えれそうだということ。今はやれ再生数だとか、フォロワー数だとかの指標になっているけど、それをそのままタイラー・ダーデンが批判しそうだなとも思える。


20年前はよりモノがブイブイといわしていたが、今はより情報がブイブイといわしているような気もする。

それらが大事ではないとは言わないが、それによって何かを奪われてしまうことも十分あり得るよなと、本作を観て思う。


やっぱり『ファイト・クラブ』には現代でも普遍性がある。

刻々と死ぬまで時間のは迫っている。