今日も朝から晩までよく働いた。

特に今日は集中力が続いた。いつもこれくらいの集中力が続いたらいいんだろうが。近年稀に見る集中力。


今は頭痛がしている。背中もバキバキ。


撮影をすれば、編集があって、編集がメドがつけば、MAがあって、納品がある。機材の設置、片付け、運搬なども。


そうしたことをあまり分業することなくやることが多かった。そういうことが常態化していった結果、気合いと根性でなんとかしてしまおうとするクセがついた。それが自分のスタイルになったかもしれない。


話変わって先日、うな丼を食べに行った。店内には私しかいない。店員はバイト研修の人と店長らしき人。ずーっと、「うなぎいかがですかー。」という言葉を30秒毎に発し続けている。どうやら僕に向かってではなく、店内から店外に向かって言っているようだ。しかし店外の道には人が通りかかる様子がない。そういうマニュアルだからやっているのか、やれと言われているからやっているのか、店のルールだからやっているのかはわからない。とにかく"うなぎいかがですかー"の声が虚しく30秒毎に響き渡る。お経とも違う何か。店内アナウンスとも違う何か。しかし規則的なタイミングがあり、うな丼を食べることにあまり集中出来なくなる。


不快とは言い切れないが、妙な不快感も残る。店長のマニュアルプレイとも言えるし、バイト研修の律儀な一面とも取れる。その届かない声はなんのために発しているのか。それが耳に聞こえてくる不快さは何なのか。思考が堂々巡りしてしまい、うな丼をじっくりと味わえなかった。


ある種の理不尽と不条理のようなもの。


とは言え、それがブーメランのように自分に返ってくる。よくよく考えてみれば、まあまあ自分も理不尽な目に遭ってきて、よくわからないことに翻弄された日があった。


何のためにこれを用意するのか、何のためにこれを撮るのか。何のために待つのか。思考をする前に、"やらなきゃいけない"が発動してしまう。AD時代には"意味がない"ことも沢山経験したように思う。でも多くのことは先輩ディレクターの機嫌とか、話し相手とか、俺がやりたいからだった。とは言えマニュアルとしてそれがあるわけでもない。その二人の間の中で、勝手にそうしたマニュアルが生まれていっただけだ。


二度とこんな目に遭いたくないと思うことばかりだが、不思議と無駄だったかと言われれば無駄と言い切れないものがある。時に教訓と思えれることも。そうしたことがあれこれ合わさって、結果として根性と気合いという形になったようにも思えてくる。


そのうな丼屋の二人のやり取りや、マニュアルが将来的に何らかの魂に変換されていたらいいなと思う。あの時、無駄に声を出し続けていたから、こんなことが出来るようになっていたがあったらいいなと、ふと思った。


こうした考えに至るのは、合理的なことだけを踏まえていてはなかはかなれないんだろうな。ひろゆきとかからしたらバカなことなんだろうけども。


合理と非合理が表裏一体となり、そしてそれを行き来しながら明日を生きていくのだろうと思う。そういう10年を生きたなあと思いました