酷評に次ぐ酷評がSNSで流れてきて、俺たちのニコケイの身に何が起きてるんだろうという気持ちに駆られて、その気持ちを抑えられずにコンディションを整えて鑑賞。


レイトショーだが、客は私一人だった。

映写バイト時代に『少林少女』を一人で観て以来の一人。少林少女も最低な作品だったが



観てみるととにかく監督の悪い癖がこれでもかと出まくっている。いつものドーンという筆で書いたような題字が出たりするのは、お決まりのパターンだけど、それが作品のテイストに合うかどうかはわからないわけで。


いくつもの世界観が雑多にごちゃ混ぜになっている。荒廃した世界のような箇所、天井桟敷のような箇所。それらが全部繋がっている世界には見えないので、もうそれぞれのセットで撮っているんだというのが見えてきてしまうのでございます。そのセットとセットの間を移動するシーンは実際にどれだけの距離があるのかよく分からなくて、大変な移動であるにも関わらず、途中で敵に遭遇したり、謎の回想があったりで、物理的な距離感が分からず。これもあってより、それぞれのセットでそれぞれのシーンを撮っている感が強まってしまう。ミニマムならばもっとミニマムなものにすればいいのに、半端な世界感が明らかに予算とのバランスが取れてないように思えます。


ニコケイにママチャリを乗らしたり、睾丸を爆破させたりという笑かしにきてるであろう見せ場もいくつかある。それにニコケイは全力で応えている。でもこの演出ってどうなんだろうか。全てが不用な演出で、どこかに透けて見える「これやらせたら面白くね?」感。演出側に真剣さが感じられないのに、そんな演出にもニコケイがフルスイングしようとしていて、なんとも言えない気持ちになった。確かに貴重な映像だし、そのギャップの妙は確かにある。でも哀しい。言ってしまえばもうそうさせた瞬間に"その程度"にしかならないってことじゃないか。演出側が役者に対して敬意を感じさせないことをさせるって。ならば最初からコメディだと表明するなりしなさいよとも思う、とは言え程度が低いとも思う。このバランスは難しい。でも映画ファンから観て支持を得られてないということはそういうことなのではないだろうか。


映画自体は時間の無駄とは思わなかったし、これはこれで、"やっぱりこうなってしまうんだよな"というものを見れて良かったとは思う。つまり映画創りの悪い例が見れたという意味で。どうして良くないかは脚本、シナリオの段階でももっと精査されるべきなんだろうけど、監督のやりたいことを加えた結果、さらによく無くなっていったんだろう。難しいけど、この企画がどうしたら良くなる形に収まったのかを想像するのが難しいのだ。


でもこんなものを求めにお客はやっぱり来ないだろうし、酷評が煽りになるというのもやっぱりキツいなあ。


でも僕はニコラス・ケイジはやっぱり好きです。こんなチグハグなシナリオの中に「バンザイ!」「オイシイ」というニコケイが日本語を喋ってくれている妙と嬉しさは確かにあったし、何よりこの人は全てにおいて全力で取り組んでいるんだというのがわかった。手を抜いてないんだな…というのが、真剣に取り組んでいるというのがわかった。


だからこそ演出のダメさと、ニコケイの真剣さのギャップが浮き彫りになっていると思う。故に映画を作るって出る側と演出する側のシンクロ率が合わないとどうしようもなくなるとも思えた。


宣伝の煽りで幕の内弁当的な喩えをしなきゃいけない作品というのは要するにごった煮の闇鍋状態で、せめて幕の内弁当に喩えるくらいしか褒めようがないというのはよく分かりました。


映画作りで幕の内弁当を掲げて制作するというのは禁止にすると教訓にした方が良さそうです。