撮られる側も狂ってるが、撮ってる側も狂ってる。そう思った。2019年に劇場公開されてる映画とは思えない。90年代のビデオ作品かと思うような露悪さが漂う。


38年前にパリで人肉を食べたとされる佐川一政の今が映し出されている。


撮る側は凄まじいクローズアップで彼を撮る。時には凄まじいピンボケで映す。これ撮影の時点でそうしてるのか、編集でそうしてるのか判然としない。広い画を一切使わないという方法論の中で、このピントの変化は唯一ある自由さのようにも思えた。ああ、これプロレスでいうところのロープワークが使えないノーロープ形式の試合のようだと思えてきた。あの海洋ドキュメンタリー「リヴァイアサン」を撮った監督、撮り方、アプローチが普通ではないのだ。こうした撮り方によって、えぐれるものがやはりあるような。


脳梗塞によってほとんど動けない中、彼の顔のクローズアップは何より雄弁だ。女性を殺害し、その肉を食べたという彼の情報が、きちんと顔に履歴書として現れているような。邪悪さがドカンとスクリーン一杯になる。


彼の絞り出す言葉はどれも印象的で、まるで作家のよう。自分は狂ってると言ったり、自分の出来事を振り返るその様子は雄弁に語るドキュメンタリーのような語りでもなければ、懺悔のようなものでもない。佐川一政独特の語りだ。脳梗塞になったことで、絞り出す言葉にはどれもパワーがある。なんというか、まだまだ生命力があるのだ。カラダがほとんど動かないというのに、まだまだ生きるような、生命力。


自作の漫画が出るシーケンス。実際に殺害し、人肉を食べる描写は完全に気が違っていた。人肉を食べて「トロみてえだ」と喜んでいたり、首を持って、性器をおったて、鏡の前に立つ自画像も気が違ってる。


その漫画の存在は佐川の弟もドン引きしている。理解ができないという。もう1人の主人公は弟だ。弟は佐川一政の介護をしている。許せないという気持ちを持ちながらも、実の兄弟であるという血の繋がりによって、彼は兄の存在をきちんと受け入れ、介護をしている。


弟が自身の性癖を見せるシーケンス。これもまた狂っている。有刺鉄線を腕に絡ませ、流血する。ナイフの先で、腕に傷を入れる。そんな性癖の発露は兄の人肉志向を追体験しようとしているようにも思える。良心と思えた弟が血の繋がりを、文字通り血を流すことで画面に感じさせてくる


佐川の過去に出演したAV、幼少期の8mmと、特に詳細が説明されれことなく、挿入される。その素材はどれも濃い。こうして突然過去の映像を出しても、佐川一政という人間に対しての想像力がさらにかきたてられる。そしてAVの映像はなんともキツかったなあ。


終盤、かつてAVで佐川一政とセックスをした里見遥子がメイド服で現れる。このメイド服なのも、彼女の説明も一切ないから不可解過ぎてその歪さが面白かった。後々調べてそういう相関関係が分かったのだけども、メイド服で現れた里見を前にした佐川はとても嬉しそうだった。この映画にミューズを投入することは1つの仕掛けなのだと思う。


映画は男と女。

それは人肉を食らう男とて普遍的ではないか。そんな構造を見せる。 そうしとことで、無理矢理にでも着地点、オチをつけることにも成功していると思う


これ性癖やフェティッシュな感情についての話でもあると思った。佐川は白人女性からのフェティッシュな感情から人肉への興味と飛躍していった。こうしたフェティッシュな感覚というのは人それぞれにあるものでもある。フェティッシュな癖とは、向き合い方や、付き合い方が大事である。どう満たし、どう満たされるか。そんなフェティッシュの幸せな着地点は高嶋兄による「変態紳士」によって書かれたいたので、個人的にはその1つの答えは出ているように思える。


しかしこうした佐川のような、感情ともしかしたら隣り合わせなのかもしれないとも思える余白があった



しかし、なんと言ってもこの撮りかたである。1つでも引きの映像があれば、随分と違うものになっていただろう。こうした観客にストレスを与えるようなアプローチ、それは地獄のようだった


これを見れば地獄の擬似体験が出来るとおもう。