美大受験のときはグラフィックデザイン科を第1志望にしていた。  


だけども、その選択が自分の向き不向きとかに関してきちんと練られているかと言えばまったかそうではない選択だったと知るのに少し時間がかかる。


確か1浪だか、二浪目のときに母親が「あんたはデザインじゃなくてアートだろ」としきりに言うようになってた。


うちの親は二人とも僕が小4のときの美術の授業で描いたネギの水彩画をずっとリビングに飾っていた。決して上手く描けてるわけでもないけど、二人とも「味がある」と言って気に入ってた。


結果二浪して情報デザイン学科に。幸いなことにこの学科には情報芸術コースと情報デザインコースがあって、僕は情報芸術コースに入学していた。今は改称してメディア芸術学科になっいる。つまるところデザインとしての社会の接合点を研究するというよりかは、メディア全体を捉えた芸術や表現といったことに重きを置いてる学科だった。結果的に僕はこの選択でよかったと思える


なんでデザインが向いてないのか、今の自分ならよくわかる。緻密な作業や正確性が要求されるアウトプット。さらにクライアントとの課題や要求、それと世間や世論を反映させた答えを求められるからだ。


だが誤解を恐れずに言えば僕にはそんなことはどうでもよかったのである。もっと感性や、気持ちの爆発や、叫びたい気持ちをどう表現にするかを考えることが好きだったからだ。


だからそうしたことが尊重されない環境や、理解してもらえないことはとても窮屈に感じられるだろう。環境が人生に左右することの大きさもこれまでの人生で嫌というほど味わった。環境によって今の自分は辛うじて生きれているが、その環境もやはり時間の流れによって激しく変化していく


プロレスラーも団体という環境によって大きく立ち回りが変化する。これまで数年間、そうした環境と思考の一致や不一致などによる成功も失敗も様々なケースを沢山見てきたと思う。


自分自身を環境に合わせてカスタマイズしていく必要もあれば、そうでなく生きる人もいる。


全てはそうした気質や性格を見抜いて適材適所に才能を配置することが大事だと思う。  


今は毎日いろんなことに悩むが、根本は美大受験の時にあった「デザイン系」か「ファインアート系」の違いが僕には大きいのだとふと思った


多摩美大生の頃、油画科の友達が出来たので油画科の校舎にいった。絵の具やキャンバス画無造作に置かれてて、言ってしまえばとても汚かったけど、僕には不思議と居心地がよく、またエネルギーを感じさせるものだった。


僕の机が汚いのは、まあこうした油絵を作るようなものだと捉えてるのかもしれない。ただそう言うことで、正当防衛してるだけだけど。でもやっぱりそれが本人の気質だとも言える


僕にはやっぱりそういう自由なアトリエが必要だと思った。