まるで映画のように、自分の人生にあった記憶はここまでして脳裏にフラッシュバックするものなのか。

9月8日、DDTプロレス成増アクトホール大会
ガウンを着たアントーニオ本多選手をリングで待ちながら、もう既にかなり時が経過しているはずのアントンさんとのあらゆる記憶が蘇ってきた。



2003年10月武蔵野美術大学芸術祭での記憶。
熱を帯びる美大特有の学園祭の中で、一際喝采を浴びる男がいた。
「赤コーナー! 武蔵野美術大学OB、現在無職、年金未納、アントニオ本多ー!!
そうコールされた男の名はアントニオ本多。当時26歳だったアントンさんは大学を卒業しても、プロレスへの気持ちを断ち切れず、OBとして学生プロレスのリングに上がっていた。対戦相手は華の女子大生、長州ミキティ。ムサビの現役女子大生だった長州ミキティが突如、OBであるアントニオ本多とのシングルマッチを要求したのだ。その試合に僕は一瞬にして引き込まれた。アントンさんの一挙手一投足が見逃せない。学生プロレスという存在を知っただけでなく、アントニオ本多に一目惚れをした瞬間だった。

「僕は大学に入ったら、学生プロレスをやろう」と高校3年生、18歳の今成青年はその時にそう思った。


2006年4月。一橋大学の小平キャンパス。なんやかんや2浪の末に多摩美術大学に入学する事ができた。やはり学プロをやろうと思い、初めて学生プロレスHWWAの合同練習に行った。すると何故か現役選手に混じって、既にDDTマットで活躍していたアントンさんがそこにいた。現役学生の中にあのアントーニオ本多がいるのだ。
僕が恐る恐るご挨拶をすると、

「学プロほど楽しいものはないからね。君は素晴らしい選択をしたんだよ。」

と満面の笑みでアントンさんは僕にそう言った。
その一言に、僕は不安だった大学生活のスタートに少し明るい兆しが見えた。


2009年11月 
僕はもうすぐ大学卒業。やはり学生プロレスを始めるキッカケとなったアントンさんと試合がしたい。学生プロレスの引退が近づく僕は本多さんに「ムサビの中央広場で試合をしてもらえないでしょうか?」と聞き、本多さんは快くそれを引き受けてくれた。ムサビの中央広場ということは、僕が初めてアントンさんを見かけたあの場所だ。

小雨が降り、つるつる滑るリング。ゆるゆるのロープ。リングコンディションはとても良いとは言い難い状況だ。そこにワンショルダーの”アントーニオ本多”が現れた。たった一人の学生プロレスラーの、学プロ人生4年間を完結させたいがためのリクエストにアントンさんはプロレスラーとして男気で応えてくれた。

僕はナックルパートの猛ラッシュをくらい、アントンさんのドラゴンスープレックスホールドで3カウントを聞いた。マットの上には曇り空。会場実況をしていた同期の保永ノリノリが泣いている。僕も泣いている。雨なのか、涙なのか判然としない水飛沫の大半はやはり涙だったように思う。それは学生プロレスを初めさせたアントンさんの拳によって、僕の学生プロレスを完結してもらった瞬間だった。

2010年夏。
名古屋のテレビ局に勤務している。とても苦しい。息ができない。そんな路頭に迷っていた頃、鶴舞のスポルティーバ・アリーナでアントーニオ本多vs彰人のシングルマッチが行われると聞いて鶴舞に向かった。とにかく息ができなかった自分はプロレスを見たいと思い、アントンさんに会いたいと思った。試合を観戦し、やはり救われた気持ちになった。


2010年12月
自分はプロレスを卒業したはずだった。就職をして、プロレスを断ったつもりだったのだが。

しかし、僕は就職したテレビ局を辞めてしまう。その情報を聞いたDDTの人たちが、坂井さんと藤岡さんがいなくなってしまって大変だからDDT映像班に来ないか?と誘ってくれた。

そこで顔を出した「NEVER MIND 2010」DDT年内最終戦の後楽園ホール大会。メインイベントは
KO-D無差別級暫定王者決定戦 アントーニオ本多 vs GENTAROの試合だった。

ディック東郷選手がタイトルを返上することとなり、アントンさんとGENさんの間で暫定王者の決定戦が行われることになったのだ。試合は渾身の卍固めで、アントンさんが勝利した。

アントンさんは試合後マイクでこう言った

「なるべくリング上では本当のことを言いたいと思っております。

アントンさんはずっと「本当のこと」にこだわった。
「本当のこと」を放とうとする本多さんは、きっとそのことで沢山苦しみ悩んんできたように思う。ただその本当のことへの感情、情念がアントンさんを駆り立て続けていたように僕は感じた。

控室でアントンさんと会い、「映像班に入ることになりました」と言うと、やはり初めて小平キャンパスで会話したときと同じような笑みで僕に握手をしてくれた。結局、卒業出来ずに戻ってきてしまった。気がついたらアントンさんとまた一緒になった。

そしてアントンさんが言う「本当のこと」というのも、映像をやっていく上でとても考えるようになる。「本当」と「嘘」というのは特に映像をやる側の人間にして思えば、非常に混然としており、また一見しただけでは分からない、それなりに見る側のリテラシーさえもが問われるものであるように思えた。アントンさんは一貫して、そこにある真実を、本当のことをプロレスを通じて探求しておられるように思えた。


その後、アントンさんを慕う若者たちとも友達になった。
成田くんや、室谷くん。竹下選手やヒロシ選手といった現役選手たちがアントンさんを敬愛している。同世代の友人たち、さらには更に年の離れた後輩選手が本多さんの持つサムシングに影響を受けあい、我々は意気投合した。皆がアントンさんの情念に引き寄せられている。

そんなことが、走馬灯のようにフラッシュバックする。

そして9月8日、DDTプロレス成増アクトホール大会。
僕はアントンさんのナックルパートをくらい、僕もナックルパートを繰り出した。もう言葉では上手く形容することが出来ない感情がダダ漏れる。拳というのはここまで多弁なのか。言葉で説明は出来ないが、僕が伝えたいこと、アントンさんが伝えようとしてくれていることは、この拳が何よりも語っているように思えた。



アントンさんがいなければ、僕は一体何者であったのだろうか。
つくづくそう思う。あのときムサビの中央広場でアントンさんを見かけてしまったことが、全てを狂わせた。狂わされたのか。狂わさられなければ、どうなっていたのだろうか。普通に生きていたのだろうか。

だが、今日思った。

これでよかったんだ、と。

本当に幸せだ。

自分が何者であろうとも、何者でもなくてもいい。何者でもなくとも、僕らにプロレスがあったということだけで十分だと思った。

僕にプロレスがあってよかった。アントンさんと出会えてよかった。
今日はプロレス人生で一番幸せな日でした。そして今日がおそらく「真実のようなもの」に近づけた日だと思いました。拳の応酬にそれが確かに見えた。 



アントンさんにはまだプロレスを続けて欲しい。DDTプロレスにはこれからもアントンさんが必要なのではないでしょうか。勝手ながらにそう思いましたし、こうして総選挙シリーズの大会に、アントンさんとのシングルをぶっこんでくれるDDTプロレスは粋でとても素敵な団体だと思います。

今日は本当にありがとうございました。