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 【桐朋】森井翔太郎|東京の超進学校に現れた二刀流のドラフト候補、「今は自分の実力を伸ばす時期」

 

 

 「エースで四番」とは昔から言われてきたが、今や大谷選手の活躍ですっかり「二刀流」が定着した。ここで問題にしたいのは、勉強もできてスポーツも一流である昔で言う「宇宙人」の事だ。

 脳科学の見地からすると「頭の良い子は、勉強もスポーツ(芸術)もできる」のだそうだ。高校の同窓にはバスケで国体に出場(東京選抜)、当時絶頂であった秋田・能代工業の選手たちがいる中、最優秀選手に選ばれる。その冬の大学受験では東大医学部現役合格という典型的な宇宙人がいた。

 

 話を高校野球に戻すと、同期野球部は高2、高3合わせて13人のマイナーチームながら、西東京大会準決勝まで勝ち進んだ。受験勉強そっちのけで一回戦から応援に行った自分たちからすると奇跡の青春ドラマだったかもしれない。

  

 

 これは,なんと1958(昭和33)以来の快挙だった。

  

 当時、春夏連覇をねらっていた王貞治(エースで四番)率いる早実は、この後、明治高校に敗れ王は巨人への入団を決意する。王選手が昔、桐朋へ来て野球場を遥かに飛び越えプールまでホームランボールが飛んだ話は伝説になっている。こんな縁があったのだ。

 今の王さんの社会での活躍を見ていると、文武がリンクしたやっぱり宇宙人ではないかと思う。企業人としてもあの高齢で現役である。

 

 同級の野球部にも、夏の予選が終わって慶應義塾に現役で合格したが、「どうしても東大で野球をしたい」と慶應を辞め(※指摘あり・訂正・休学)受験し直して東大に合格した人がいた。

 

 甲子園出場は果たせなかったが、翌年には同じ西東京の桜美林が全国制覇をし、1980年、大学通り向かいの都立国立高校が甲子園出場を果たした。客観的に言って準決勝進出が決してフロックではないことがわかる。

 個人競技との違いは、中1から6年間チームで育つという事は教育環境としては非常に大きな要因である。

 

 ところが、進学校である桐朋に入ったが故に、この後大きな過渡期を迎える。高校生になって、さあ、いよいよこれからという時、「大学受験に専念するのでクラブ辞めます」という部員が続いた。バッテリーが揃って辞めた時もある。

 親が辞めさせたというより、周囲の空気がそうなっていたんだろう。

 

 現在でも、地方によってはその空気は残っている。「文武両道なんて才能がある人間ができる事だ。」これが学校の進路指導に出てくると、生徒にとっては人生のチャンスを潰すことにもなる。教育で「無理」はNGである。

 

 30年近く甲子園への夢が遠かった桐朋に、ある年大きなチャンスが訪れた。傑出した投手が現れ、秋季大会で日大三高を破り、春の選抜出場の候補となったのだ。

 

 ちょうど長男が桐朋中学に入学し、竸技界(スキージャンプ)初の全国中学・東京都代表選手となれるかどうか?という時の朗報だった。

 

             (ちょっと事情が複雑なので続く)