札幌五輪金メダリスト 笠谷幸生さんが亡くなられた。まだ80歳‥。

 

 

 1972年 札幌五輪で熱烈なジャンプファンとなった。70m級の表彰台独占ではなく、日曜日に開催された90m級を手に汗握って中継を観た時からだ。風が悪く待ちに待ってスタートし、横風に煽られ失速。優勝はポーランドのフォルトナ。こんな自然に逆らい、自然に左右される競技があるのか?と神秘な世界だった。同時にあまりにも自分には別世界で、だから憧れた。

 

 

 1988年 カルガリー五輪の解説は笠谷幸生さんだった。

 鳥人ニッカネン全盛の時だ。解説の笠谷さんは「正直言って、あと10年しても日本のジャンプ界は追いつかない。」と言った。

 しかし、V字ジャンプが世界を動かした。

 10年後は1998年。長野五輪で日の丸飛行隊は復活した。

 

 1999年正月 右も左もわからないジャンプ界に家族で飛び込み、子ども達がミニジャンプ大会に参加した。長男が小3、内藤智文が5歳の時だ。

 スターターは札幌五輪の田口信夫さんだった。「お会いできて感激です」と伝えると「ああ、東京の子か。応援するよ」と応えてくれた。

 さらに札幌五輪銀メダリストの金野昭次さんが「おじさんと一緒に写真撮って!」と智文に声をかけてくれた。私は固まってしまい声もかけられなかった。

 

 2003年 内藤智文小学4年生 余市のJr.大会で準優勝。表彰式のプレゼンターが笠谷幸生さんだった。こんな光栄なことはなかった。

 北海道のコーチに呼ばれた。「息子、もっとちゃんとさせろよ!笠谷さんの前で菓子食わせんじゃねえよ。」と叱られた。竸技界の中で笠谷幸生さんは神だった。

 

 2006年 笠谷幸生さんと小野学さんの発案で、長野県白馬で「スキージャンプセミナー」が開催された。とにかくたまらないほど興奮し、忘れられない技術セミナーだった。その中で笠谷さんは「これからはスペシャルとコンバインドが連携して技術研究に取り組むべきだ。」とまとめられた。

 この時、初めて憧れの人と話せる機会を持つことができた。

 私が素人であることを承知の上で、一つ一つの疑問に対して丁寧に答えてくれた。このセミナーが、我が子以外にもコーチをしようと思ったきっかけでもあった。

 

 私には、子ども達の恩師以外でスキージャンプの恩師がいる。

 

 笠谷幸生さん(故人)

 小野学さん(故人)

 秋元正博さん

 原田雅彦さん

 

 自分とは別世界だったものが、今、自分の人生とリンクしているのが不思議だ。

 

 笠谷幸生さんを偲んで

 合掌