マッサンこと竹鶴政孝氏は、ウィスキー事業が軌道に乗ると、今度は日本人初の宇宙飛行士を育てようと思った。何と1950年代の話だ。
宇宙飛行士になるには、空中のバランス感覚を養うスキージャンプが良いと考えた。そこで建設したのが竹鶴シャンツェだ。
竹鶴氏のもとへ校長が有望な中学生を連れて来た。その中学生こそ札幌五輪の金メダリスト笠谷幸生さんだった。
スキージャンプは宇宙飛行士につながらなかったが、余市は後に日本人初の宇宙飛行士、毛利さんを輩出する。
ちなみに「竹鶴ジャンパー」とは、メーター表示板のない「竹鶴」
の文字のところに落ちる選手をいう。