昨年は、世界遺産に認定された北日本縄文時代遺跡を巡り、眠っていた考古熱に40年ぶりに火がついた。

 思い立って、最初で最後であった主任調査員となった発掘現場が、今どうなっているか訪れることにした。

 東京都あきる野市 二宮(神社)遺跡

 

 ここは縄文時代中期〜後期の大規模集落跡で、周辺の草花丘陵遺跡群も含めると世界遺産級の大規模遺跡だ。

 ところが、年も押しつまった12月28日、「秋川市(当時)の遺跡範囲内で道路の配管工事があってね。年始じゃ人がいないんだけど調査員やってみない?」

 「正月は暇なんで大丈夫ですけれど、主任はどなたですか?」 

 「それがねえ、〇〇さんのはずだったんだけど、この間、時代のわからない不気味な地下の神棚みたいなところを調査したら、急に体調崩してね、入院してしまったんだ。〇〇さんのピンチヒッターって訳」

 なんともオカルトな話だけど、初めての調査主任ということで緊張感もあったが引き受けることにした。

 しかし、現地に行って驚きで呆然となる。

 発掘現場と言っても神社裏手の住宅地。路地の配管部分だけの確認調査だ。幅80cm、長さ50m。その部分だけアスファルトと下地の砂利を剥がし深さ1m程調査する。作業員は、60代、70代のおじさん4人。あまりにも描いていたイメージと違う。

 すでに古墳時代の竪穴式住居の壁と思しきものが確認されており、その実測から始まった。

 今考えても、過酷な発掘だった。アスファルトを剥がす掘削機はおじさん達がやってくれたけど、砂利は凍りついていてツルハシでも歯が立たない時がある。寒い日は日中でも2℃しかなく、土器をあげて道路に置くと土器片が凍りついて無理に剥がすと壊れる時もあった。

 狭くて寒くて、指先は凍え、引き受けたのを後悔した。

 調査が始まって1週間後、休憩は小さな火を囲む。おじさん達は、食べたみかんの皮を火で乾燥させていた。唐辛子に混ぜたり、風呂に入れるのだそうだ。

 雪が降り始めた。勘弁してくれ〜。

 すると一人のおじさんが「あの日も雪が降ったなあ」と語り始めた。なんと昭和11年にあった2、26事件の事だった。インターネットは勿論、TVもない時代、クーデター未遂があってもすぐにニュースには流れない。神社脇の集会所で大人達がヒソヒソ話で騒ぎが伝えられたらしい。

 直接現場に居合わせたわけではないが、おじさんの話は臨場感に溢れていた。

 暖かい日曜日、小学生が集まってきた。女の子が「何をしてるんですか?」と聞いてくる。教員養成大学出身の身として、そこは丁寧に説明した。母親が出てきて「工事の邪魔しちゃダメよ」と声をかけた。

 いえいえ、これも仕事ですから。

 2日後、今度は友達数人を連れてきた。クラスで発表するのだそうだ。「こちらの土器片は4500年前。こちらの家の跡は聖徳太子の出てくる少し前‥」通りがかった老人が怪訝な顔で聞いている。「こんなところに聖徳太子の時代のものがあるもんか!子ども相手にからかっちゃいかん。」納得するまで説明しようとしたが、どうやら自分の勘違いと気付いたのか「スンマセン、スンマセン」と話の途中で行ってしまった。

 翌日は別の家からおじさんが出てきて「家に変な石があるから見てくれ」という。縄文時代の石皿の破片と中世の板碑の破片だった。縄文土器の破片もあったので、家から持ってきた縄文土器集成の写真を示して「この土器のこの部分」と説明した。おじさんはいたく感激してみかんと鱈の干物をたくさんくれた。作業員のおじさん達にあげたら喜ばれた。

 次の日は大人達が集まってきた。近所が集まるから説明会を開いてくれ、と言う。張り切ってパネルや資料も用意してプチ説明会を行った。

どの家にも畑で拾った土器片がある。「これは〇〇年前」「こういう土器のこの部分」「これはコンクリート」どうしてそんな事がわかるのか?という質問もあった。

 説明会の後、ご婦人から「何十年住んでて知らなかったわ。学校で教わった事と全然違うんだもの。」嬉しくて忘れられない言葉だ。

 結局、2週間程で、本来の調査員が復帰してきたのでお役御免となった。

 あの寒くて狭い路地は40年以上経った今でも変わらない。

 なんの変哲もない路地だけど、熱いものが込み上げてきた。

 

 もしかすると、この経験があって自分は教員になろうと思ったのかもしれない。