元旦那さんがお星さまになってから12年目となりました。
毎年この日には高速飛ばして1時間ほど。
彼の家のすぐ裏のお寺までお墓参りに行ってます。
年に一度のお墓参り。
再婚して新しい人生を歩んでいるけれど
ひとりで行ける限りはずっと行こうと思っています。
私の人生の大きな一部だから。
彼の歌の前に
彼の事をはなしたく
少し、いやだいぶ長い話しをしたいと思います。
※うまくいかない闘病~再発~最期もあるので閲覧には注意ください。
歌のリンクは最後の方にあります。
歌だけでも聴いていただけたら幸いです。
彼との出会いは2000年
私がその彼とは別の当時の彼の住む町へ一人暮らしを始めて、その時のアルバイト先で知り合いました。
今までずっと3つ以上年上の少し落ち着いた男性とお付き合いしてきたのに、何を血迷ったのか(笑)
早生まれでほぼ3つ年下で21歳の天真爛漫な元気さに惹き付けられ、お互いに結婚を視野にいれ始めていた6つ年上の3年程付き合っていた当時の彼と別れ、元旦那さんとのお付き合いとなりました。
彼はその頃バンドを組んで岡崎や名古屋のライブハウスでボーカルとして歌ってました。アマチュアです。そんなにファンがいた方ではありませんが(笑)
コミカルで独創的な雰囲気で人を惹き付ける魅力がありました。バンドの近いイメージとしては、ブルーハーツ(ハイ・ローズ)かな。ガリガリでよくピョンピョン跳ねてました(^^;
けど数年後、そのバンドメンバーとはケンカ別れ。
ひとりでたまに歌を作りながら
浜田省吾に憧れる彼は歌うたいの夢をなかなか捨てれずにいました。
その後彼は、ロッキン(楽器屋)のオーディションに出たり
大阪吉本のオーディションに出たり←最終まではいった(笑)
芸能プロダクションに入ったり←CMやカラオケPV出演ぐらいはしたけど、敬愛する社長が辞めて彼も辞めた💦
いろいろためしてきました。
とにかく表舞台に出たい人でしたね(^^;
外面は三枚目でしたが
惹き付ける魅力がありどこにいっても中心的存在となり人が集まりましたが、いつもあと一歩のところで進まず。
私との日々も破天荒な刺激があり楽しくもありましたが
お互いに頑固で大きなケンカも度々ありました💦
いろいろやりながらも30歳も近づくと
ようやく将来の事も考えるようになり
就職、結婚しても夢は追えると
手に職を付ける為に鍼灸の学校に3年通う事になりました。
えっ今から3年学生になるの!?
私はほぼ3つ上ですからね。私はいくつ(ーー;)
でも結婚に向けてごくごくわずかな貯金をし、
無事鍼灸の資格を取り卒業し約1年後、
2011年に結婚する事となりました。
長い付き合いで初々しい新婚生活ではなかったけど(笑)
今も一緒にいるインコちゃんを迎え入れ、
明るい未来を見始めていた半年を過ぎた2012年の初夏
「口内炎が痛い。なかなか治らない。」
たかが口内炎と長く我慢をして様子をみていたけど
いよいよ総合病院の口腔外科に行ったら
即、愛知県がんセンターへの紹介状を渡されたそうです。
帰宅した彼はたくさんネットで調べたのでしょう。
絶望感に包まれていました。
状況を詳しく知らない楽観的な私は
手術すれば治るんでしょ。ぐらいにしか初めは思ってませんでした。
詳しく検査した結果、
リンパ節転移の為、ステージ4の舌癌
その時彼はまだ33歳。
若いと進行が早い。その言葉にも怯えていました。
そして歌うたいを夢見る彼は
半分以上の舌を失いました。
そこからの彼は
ステージ4と診断された西洋医学を捨て
民間医療や東洋医学に夢中になりました。
抗がん剤や放射線治療はせず
足ツボに里芋湿布に気功に食事療法
東京まで行き、怪しい治療も受けました。
ステージ4から奇跡の回復した人の本を読んで憧れ同じような事をし、がん患者マラソン大会にも出ました。
がんばってがんばったのに
半年後の年末辺りからまた口内に違和感が出て
2013年初春に再訪した病院で
舌癌~喉頭がんまでの再発を診断されました。
そして本人は聞きたがらなかったので
私と義両親で「年内」の余命宣告を聞きました。
ドラマでみた事のあるそのシーンを
私は他人事のようにポワンと聞いていました。
手術はできる状態ではないので
放射線治療になりました。
数ヶ月続けた後
彼は気休めの抗がん剤しかできない西洋医学にまたまた見切りをつけて
今度は遠い遠い宮崎県の民間医療、びわ温熱治療院に住み込みでお世話になる事にしました。
ここはあの本の奇跡の著者もお世話になった場所です。
当然私も仕事を辞め付いていき、共に治療に専念しました。
食事療法しようにも口の中がもうダメでほとんど開けれず、鼻からチューブを通して直接胃に流す流動食のみ。
運動療法しようにも首の骨にも転移してる可能性があり骨折のリスクがあるので運動禁止。
それでもがんばってがんばって歩いて散歩した先の大きな清武川のほとりで、何度もふたりで座って眺めていた景色はずっと忘れないでしょう…
ただただ熱いびわの葉のお灸を患部に当てる日々。
でももう体の中だけではなく外面に出てくるほどでした。
さすがにそこの治療院の先生も、一度病院に行った方がいいよ。と強く進めていたのに、かたくなに彼は病院を拒否していました。
もしかしたら彼は怖かったのかもしれません。
そんな2ヶ月ほど経ったある夏の日
彼のご両親がサプライズで治療院までやってきました。
少しは元気になってるだろうと楽しみに来たご両親が目にした我が子は…
たった2ヶ月で誰が見ても明らかに、手のほどこしようがないほど悪化していました。
その時私達はもう感覚がマヒしていたのでしょう
必ずいつか奇跡が起こり復活する。
最期のその日まで信じていました。
信じようとしていました。
明日にでもすぐ病院へ!
両親に懇願されてようやく宮崎大学医学部附属病院がんセンターへ行きました。
そこではもう
「1週間」の宣告を受けました。
地元(愛知県)に帰るなら今すぐに。と先生に言われたけど
彼は諦めたくなく。現実を受け入れたくなく。
宮崎県になおとどまることを決めました。
結果2週間後に緩和ケア病院へ移動したわずか1泊後の昼前、ご両親が治療院先へ荷物を取りに行ってる間、
最後に突然立ち上がり嬉しそうに小さく両手を上げてニコニコ体を揺らしたあと、気を失いそのままお空に行ってしまいました。
2013年7月24日 享年34歳
わずか1年ほどの闘病生活でした。
とてもとても長い1年でした。
最後に病気が治った幻覚でもみたのでしょうか。
イタいツラいアツい報われない日々を送っていたので
最後の嬉しそうな笑顔が悲しくも救われました。
ただ、ご両親には本当に申し訳なかったです。
元気になってくると家を出たのに
元気になってると信じようとしていたのに
こんな状態にさせてしまい
しかも最期の時に外出させてしまい
本当に本当に申し訳なかったです。
なのにあの時はしばらく
ご両親が寄り添い悲しみあう姿が
うらやましく
あぁ私はこれからずっとひとりなんだと
誰よりも一番悲しい人になってました。
親になった今、我が子を失うほどつらく悲しい事はないのにね。
そんな彼のご両親とは今疎遠です。
彼の2人の姉と同じように、彼がいなくなった後も大切に接してくれていました。
彼が病気になってから住み始めた、ご両親の家の向かいにある元祖母の小さな家にその後も1年はひとりで住み続けていました。
でも、今の旦那さんと出会いお付き合いがはじまりそうな頃、さすがに実家に帰る事にしました。
三回忌もだいぶ過ぎたある日、ご両親へメールが送れなくなりました。
意図的?ともよぎりましたが、何かの間違いで送れなくなくなったのだとしたら…と簡単には諦めきれず、彼の下のお姉さんにメールをしました。
そして新しいアドレスを教えていただき、何事もなく過ぎていたある日、またメールが送れなくなりました。
あぁ、これは意図的だ。と
もう連絡する事はやめました。
新しい生活を始めた私に気を遣って距離を置いたのか
新しい生活を始めた私を許せず距離を置いたのか
もしかしたら両方かもしれませんね。
でも、毎年お墓参りに行くと
お墓の花がパンパンじゃないんですよね。
命日ぐらいパンパンにしたいじゃないですか。
私が来るのをわかってて
私がお花を入れる分を残してくれてるんだと思います。
わかりませんけどね。
でもその見えないけど繋がってるな。と
ご両親を今もいとおしく思います。
少なくともご両親が健在であるうちは
共に彼を偲んでいきたいなと思います。
私の唯一の罪滅ぼしでもあります。
と、歌ですね! ←ようやくー!
バンドを辞めてから
彼が作った曲は披露する機会を失いました。
プロポーズソングは結婚式で披露されましたね(笑)
手術で舌を失いうまく喋れなくなりましたが
たまにがんばって歌っていた事もありました。
私の中で彼は歌うたいでした。
彼のならすギターも少しハスキーな歌声も大好きで
頭の中でずっと記憶しています。
結婚してから作った最後の曲が
小さなボイスレコーダーに保存してあり
彼が旅立ってからずっと
毎日何回も何回も聴いていました。
イヤホンをして目を閉じれば
すぐそばにいるのを感じる事ができ
寂しい日々をなんとか過ごす事ができました。
その大切なボイスレコーダーも
再婚し妊娠し育児に追われるなか
しばらくほとんど聴かなくなったうちに
壊れてしまいました。
いつかどうにか彼の最後の歌を
他の誰かに聴いてもらえたら…
頭の片隅にずっとありました。
不妊治療からブログを始めて
育児日記に変わり←今のアメブロ
彼がお星さまになってからの10年後
彼が敬愛する浜田省吾さんとの再会(映画告知ポスターで)を果たし
再加熱のブログが加わったある日
彼と省吾さんとの思い出写真なんとか残ってないかな~と昔のパソコンを起動し探しまくった結果、
写真は何も出てきませんでしたが(*T^T)
ボイスレコーダーからバックアップした
彼の最後の歌を見つけ
久しぶりに聴くことができました。
これをブログアップしたら
私以外の他の誰かに彼の歌を聴いてもらえるかも…
命日に向けて試行錯誤しました。
私はAV音痴なんです💦
英語も大の苦手でどうにも機械系、ネット系はハードルが高く今こうしてアメブロをするのがやっとです。
Xはいまだに登録できてません…(ーー;)
ブログは動画が1分しかアップできませんね💦
分割してアップする?
曲を分割するのはさすがにちょっと…
YouTubeにアップしてリンクすればいいかも♪
でもYouTubeアップなんてできる(*_*;?
アップするのにお金かかる?
ハードルが高すぎてしり込みしていましたが
最近ようやくブログにリンクする事を学び(笑)
YouTubeもリンクする事ができ
やれそうになってきましたので
動画アップの準備を始めました。
YouTubeなら、1分以上の動画もアップできます。
長くなりましたが
彼の最後に作った、私だけしか知らない彼の歌です。
パソコンの音源をスマホで動画撮影したので
鮮明ではありません。←技量がないので💦
ギター一本の弾き語りで、声もたまにかすれて
お粗末な動画です(;´д`)←本当はもっといい歌声だといいたい彼バカです💦
聴いていただけら嬉しいです。
彼と出会った人達にも
届いたらいいな。
彼の歌を聴いてくだった方
ありがとうございました。
彼の歌をわずかな人にでも届ける事ができたかもと
スッキリ自己満足です(^^;
お空で少しでも喜んでくれるといいな~
=追記=
彼の闘病に、彼と宮崎の治療院の名誉の為に補足させてください。
彼が宮崎県の治療院に行った時にまずは宮崎県のがんセンターの病院に診断に行きました。治療院の先生からの進めです。わずかな寿命が伸びるかもしれない抗がん剤をしんどい思いまでしてするよりは、緩和ケアをしながら穏やかに過ごした方がいいんじゃないか。との診断に彼はすんなり受け入れる事ができませんでした。若かったからだと思います。そんななんの治療もしてもらえない状況の中(鼻からのチューブの交換と痛み止めはもらっていた)、宮崎の治療院は本当に親身になって経験と知識を駆使し回復方法を更に模索しながら共に戦ってくれました。ただ残念ながら彼の奇跡は起こりませんでした。不本意ながら治療院の先生は限界感じ、もう病院戻った方がいい。と言ってくれたのでした。でも彼は最後の最後まで諦めきれませんでした。
「1週間」との宣告(彼は聞いてません)の病室でもなお枇杷温灸を求め、病院の廊下での散歩をがんばってました。がんばりすぎて体が悲鳴をあげ寿命が逆に少し縮まってしまったのかもしれません。でも彼はわずかな可能性を捨てきれず最後の最後まで戦ったのでした。
私は西洋医学(病院、緩和ケア)も東洋医学(民間医療)も否定はしていません。
明らかな詐欺以外は本当によくしてあげたい!と情熱をもって治療してくれました。すべてに感謝しています。