37才で世を去った後、現存する遺稿は
童話など百数十篇、詩など八百余篇
短歌八百数十首、その他の作品数十篇・・・
宮沢賢治集などとして出版され
たーくさん、日本中の人に読まれている。
しかし!
賢治自身が完篇として生前に発表したのは
一冊の詩集と、一冊の童話集、
そして地方新聞や同人誌に掲載した
36篇の詩と10篇の童話。・・・だけなのだ。
つまり、現在流布している全集、童話集は
賢治の意思に関係なく編集されたもの。
これ、結構重要なことらしい。
賢治が、生前に出版した貴重な単行本は
大正13年の、詩集「春と修羅」
そして同年、童話集「注文の多い料理店」
どちらも自費出版、盛岡の小さな印刷屋と
友人と立ち上げた手作り事務所で作成し
しかもほとんど売れなかった、という。
賢治の創作活動に影響を与えた二大巨頭は
萩原朔太郎とベートーベンで、
「交響曲」に熱中、「月光」や「運命」に感動する。
「俺もぜひこういうものを書かねばならぬ!!」
という意欲とこだわりが、表れたのが
大正13年の「注文の多い料理店」 初版本。
紫紺の厚表紙に金文字の装丁、油絵の装画、
中身は全てコットンペーパーの豪華仕様、
カットや挿絵にもこだわり抜き、まさに
森の童話の交響曲や~♪、、という逸品に。
しかし!
当時はまだ「お伽話」から「童話」への過渡期。
高額だし、インディーズだし、、全く
理解されず、料理屋の繁盛本と間違われた、
なんて伝説もあるほど、売れてない!
そんな初版本を是非復刻したい!と
熱望する編者が、なるべくなるべく忠実に
文庫化したのがこの本。
美しい装飾は割愛され、再現には程遠いが
雰囲気だけでも味わってほしい、と。
「イーハトヴ」とは・・・賢治自身が書いた
宣伝のための「新刊本案内」によると
賢治の心象中に実在する、
「ドリームランド」としての岩手県。
ここでは 「あらゆることが可能で、
人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し
赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる」
そして 「田園の新鮮な産物であり、
馬鹿げていても、難解でも、必ず心の深部に
おいて、万人共通である」 と言い、
「卑怯な成人たちには
畢竟不可解なだけである」と気を吐く場面も。
朔太郎よりベートーベンより、
賢治の人生に大きな影響を与えたのが
19才で出会った島地大等編の
「漢和対訳妙法蓮華経」で、
「驚喜して身が震い戦(おのの)いた」
童話を書き始めるのは、その4年後。
実家を浄土真宗から日蓮宗に改宗せよ、
と迫り、受け容れられずに家を出たんだ・・
大人は駄目だ。
でも、純真な子供の世界に
「まことの草の種」を蒔こう。
賢治の童話の目的は、かなり明確に
仏教、特に法華経の普及だったんだなぁ。
子供の心に山川草木悉皆成仏、利他行の
芽を育て、幸福な社会を築きたい。
「これからの宗教は芸術です。
これからの芸術は宗教です」 と言い
信仰実践の一途に命を燃やした宮沢賢治。
世阿弥の話にも通じるなぁ。
生前全く有名じゃなかった、のは意外だけど
見事に花開いたのは、
やっぱり面白くて、深いから、かな。
賢治さんの意図とは違うだろうが、
「注文の多い料理店」なぞ、
風刺・皮肉がギョッとするほどエグいから
子供より大人に響くんじゃないかなぁ。。
私はこれからもっと読むつもりだけど、
孫にもプレゼントしてみよっかな。(^-^)
肋膜炎などから37才の若さで父母に先立つ。
「ご恩はきっと次の生、又その次の生で
ご報じいたしたいと、
それのみを念願したします。」