というのは、●天平の甍で感動したけれど、
その後の大変さは全然知らなかった。
もちろん歓迎され、東大寺大仏殿で
聖武太上天皇に戒を授け、大僧都となり、
戒壇院が建立され、正式な授戒が始まり(755)
唐招提寺を開き・・って、教科書にまとめると
そうなるけど、、実態は違うんだ!全然!
もう一人の大僧都には、藤原仲麻呂の盟友で
ある良弁(ろうべん)が厳然と存在し、
鑑真は2年で解任、隠居させられ
新田部親王旧宅・・嫡子の道祖王が橘奈良麻呂
事件で処刑された後の荒家・・に移り住む。
そこを「唐律招提」という私塾とし、
「唐招提寺というお寺」になったのは、なんと
鑑真が死んだ13年後。なんてことだ~
「僧」とは本来「僧伽」という僧侶の集団を指す
言葉で、一人の僧侶は「比丘」と呼ばれる。
僧伽にあっては師も弟子も同格であり、
全員参加、全員一致で物事を決めるので
教団の和合の為、厳しい「戒律」があるのだ。
そして、「授戒」の儀式というのは
戒を受ける資格がある、と認定されただけで
そこから5~10年の出家修行が必要になる・・
ということを私も知らなかったけど、
当時の日本人も、まるで解っていなかった。
戒を授ける資格のある、偉いお坊さんが来て
「授戒」してくれたら、それで良い♪と。。
本当の僧侶を育てようとしていた鑑真ら
唐僧チームは、授戒後の僧たちの宿舎にも
困り、経済援助も少なく、ほぼ放置された。
鑑真が大僧都を解任されると、続日本紀から
も消え、あとは5年後の死亡記事のみ。
鑑真の功績が美談調で今に残るのは、
当代一の文筆家、淡海三船が書いた
「唐大和上東征伝」の見事な筆力のせい。
路子先生は、この顕彰記の美文を剥ぎ、
唐招提寺の成立が如何に困難だったか、、
を探る。鑑真の生前は金堂も仏像も無く、
というか、「寺」ですらなかったんだ。
路子探偵は、日本は鑑真をどう処遇したか?
唐招提寺創建の本当の年代は?
相当な疑惑の目を持って調べているよ。
鑑真たちの記事が少ないぶん、この時期
孝謙(→称徳)女帝の政界は大揺れ!
政治家は仏教どころじゃなかったみたい。
孝謙女帝を擁する藤原仲麻呂の
紫微中台、恵美押勝帝国、橘奈良麻呂の乱・・
路子先生は、仲麻呂の中国趣味や
政治機構いじりで権力拡大するやり方を
「律令社会が生んだ天才」と絶賛?してる。
仲麻呂が目指したのは聖武の否定、そして
何より天智・鎌足への回帰だったんだなぁ。
そして孝謙&道鏡騒ぎに乗じ、仲麻呂に冷遇
されていた藤原式家の大逆襲!
孝謙(称徳)死後は、藤原家団結で光仁天皇を
擁立して、吉備真備を引退に追込み
さらに一転、出し抜いて桓武を担ぎ出す!
路子先生はこの藤原百川の鮮やか手腕も
数百年に一人の政治家、と大プッシュ~
結局、道鏡の出現で仏教界は混乱し、
政治との密着も問題視されたことから、
戒律復興が叫ばれ、唐招提寺という存在が
ようやく重みを増すようになる。。。
鑑真たちの蒔いた種が少しは・・
育ってきたのかな。。良かったのかな。。
唐招提寺の本尊、盧遮那仏座像は
華厳経に基づく東大寺の毘盧遮那仏と違い、
戒律の根本教典である「梵網経」の世界。
千人の釈迦、千百億の釈迦の思惟・・・
「千眼千臂経」を読んでいた
路子先生いわく、
「仏教界も学者たちも、鑑真を語るにあたって
なぜか良弁の存在から眼を逸らせている。」
こりゃ大問題。