1267年にモンゴルからの国書が到着し、
この国難に対処するべく推薦されて翌年、
18才で執権の座についた。若い~!
即座に戦争の準備を進めながら、
侵略を受けた高麗の現状を探り、
モンゴルの意図を見定める。。
1274年文永の役
1281年弘安の役・・博多湾で2か月も戦った
モンゴル(元)が致命的な打撃を受けて
退去するまで14年間。時宗32才。
この合戦に命を捨てた敵味方、全ての霊を
祀る円覚寺を創建し、2年後の1284年
病気のため34才の若さでこの世を去った。
北条時宗かも?という肖像画。
スゴくない?
日侵略目的の大国に大挙攻め込まれる・・
この合戦に命を捨てた敵味方、全ての霊を
祀る円覚寺を創建し、2年後の1284年
病気のため34才の若さでこの世を去った。
北条時宗かも?という肖像画。
スゴくない?
日侵略目的の大国に大挙攻め込まれる・・
なんて、日本の歴史でただの一度きりだよ。
もしかしたらそのためだけに、
日本を守るためだけに、
生まれてきたんじゃないか?!
だってこの時の対応、尋常じゃないんだ。
▼一度目の使者→返書しない
▼二度目の使者→返書しない
▼三度目の使者→国書受け取らない
そして文永の役後は、
▼元からの使者を斬る
▼元に滅ぼされた宋からの使者を斬る
そして弘安の役で勝利!!
この強硬姿勢は無謀だ、、という意見も
あるけど、私はそう思わなかった。
国書の無視は、モンゴルが尊大で礼を失して
いることに対する非難の表明だし、
蹂躙されている高麗の現状を見ても
屈伏=侵略は明白、という判断も的確。
使者を斬ったのは、
文永の役で対馬・壱岐の島民を皆殺しにされ
謝罪もなかったから。
日本は誇り高く、勇敢な国だった。。
時宗は優秀で勇敢で賢明で、、
とてもカッコ良く書かれていた♡
また、ちょうど鎌倉仏教の隆盛期で、
鎌倉入りを止められたとこだとか。
時宗は蘭渓道隆の下、建長寺で座禅に励み
道隆の死後は、無学祖元を招聘する。
朝廷では後嵯峨天皇の後、後深草と亀山の
兄弟で皇統争いとなり、時宗の仲裁により
交替で天皇を出すことになる。これが
南北朝分裂のモトになったんだね・・・・
この短い執権時宗の時代、今に伝わる有名な
この短い執権時宗の時代、今に伝わる有名な
元寇の戦没者を、敵味方区別なく供養する
正式には 「えんがくじ」と読むそうだ。