●相模のもののふたち @永井路子 | ★50歳からの勉強道~読書録★

★50歳からの勉強道~読書録★

本は友達。一冊一冊を大切に記憶に留めておきたい。

鎌倉の住人、永井路子さんが実際に
現地を歩いて鎌倉武士の痕跡を探す。


三浦、佐原、土肥、伊東、大庭、梶原、
和田、曽我、二宮、波多野(秦野)、長尾、
渋谷、松田、愛甲、石田・・・


名前そのまま、見事に全部地名だー(^◇^)


当時は「一種の土地ブーム」だそうで、
普段は開拓者であり、農場経営者である
豪族たちは、目の色変えて土地を求めた。


一所懸命!   一つの所に命を懸ける!!







永井さんは、たまたま訪れた熱海からの
景色に驚いたという。目の前に三浦半島と
房総半島が、とても近く見えたのだ。


頼朝挙兵の際の土肥、三浦、千葉氏の連携
プレーは、ごく自然なことだったんだ、、
と、間近に実感できたんだって。







平家物語で目立っていた梶原景時は、
あれ?  なんかわりとウチ近い。。


ダンナに「小学校に梶原景時のお墓あった?」
と聞くと、「うん、あったよ。」と
あっさり。うわー!


梶原景時は、最初平家側だった。
石橋山の戦いで敗走し、隠れている頼朝を
わざと見逃してあげて、その後は頼朝側近と
なった、鎌倉幕府運営の中心人物。


土肥の椙山(すぎやま)の洞窟に隠れている
頼朝を助けた。




義経を陥れた大悪人・・・というイメージもある
ようだけど、実はそうとも限らない、、と
路子先生は弁護する。


頼朝は戦闘の手柄や違反などを見届ける
軍奉行(軍監)として、範頼に土肥実平、
義経に梶原景時をつけていて、戦況報告は
お役目だったのだそうだ。


まあ、喧嘩したから私情も入れたかも。
他にも、評価に不満な人から恨まれたし、
なんだか石田三成みたいだなぁ。


梶原景時は大庭一族だったんだなあ。





その他、買い出しに行くスーパーとか
はしごするBOOK  OFFとか、車でうろうろ
するあちこちに、鎌倉時代があるらしい・・
けど、目立たないんだなーこれが。


この辺も今は線路が通ってるんだよね。。





この本が書かれたのは30年も前だけど、
その時ですら宅地化の波に消えそうな、
もののふの足跡・・      👣  👣  🐾


それでも路子先生は「庶子分」とか「御屋敷」
とか細かい地名を発見しては喜び、
また「地番変更は残酷な歴史圧殺」と嘆く。






相模の地に住んで5年。
ふと気がつけば、四方、鎌倉武士に囲まれて
いたわけか!


うかつであった。お出掛けする時は、
この本持ってかないと。  (^_^;)