好きなことをするって、一見、とっても簡単なことのように思えるけど、実のところ、これって、本当はすごく大変なこと。
だから、皆、途中で挫折してしまう。
だって、好きなことだから、どうしても、その世界の一番になりたい。
でも、ある日、ふと、周りを見まわしたら、自分より能力のある人たちが、たくさんいることに気付いてしまう。
本当はそんなこと気付かずに、自分のしたいことをし続けていればいいのに、なぜか、あるとき、ふと周りを見回してしまう。
そして、なぜか、周りに自分より能力がある人がいることに気が付いてしまう。
かつ、自分よりも能力がない人が、自分よりも活躍している姿が目に入ってしまう。
俺のほうが、私のほうが能力も、努力も上のはずなのに、なぜ、あいつのほうが活躍しているんだ。
自分がどんどん、取り残されていく焦燥感に取り込まれていく。
こんなはずじゃない。
俺のほうが、私のほうが能力があるはずなのに。
もがき苦しんでいる自分と比べて、相手はまるで大海原を気持ちよく渡っていくかのように、向こう岸に泳いでいく。
僕だって、私だって、同じように泳ぎたい。
好きだったはずなのに、やりたかったことだったはずなのに、なぜ、こんなに悲しく辛い思いをしなければならないんだ…
どんどん、自分が嫌になっていく。
彼らと同じように、自分も能力を発揮するはずだったのに、何かが違ってしまっている。
自分が望んでいた未来と何かが違う。
こんなはずじゃなかった。
俺が、私が描き望んでいた未来はこんな風じゃなかった…
俺には、私には能力があったはずなのに、いつからこんな風になってしまったんだ…
こういった思いに抗(あらが)うことは、本当に大変なことです。
なぜなら、これは自分の内側から湧き出てくるからです。
聞きたくなくても、勝手に聞こえてきてしまう、これらの声…。
耳をふさいだとしても、自分の内側から聞こえてくるので、止めることができないのです。
だから、厄介なのです。
そして、そんな時、人がとる行動には3つあります。
1つ目は、無視をする。2つ目は自分を消してしまう(=自己消滅衝動ですね)。3つ目は、自分以外のこれらの他者に対して嫉妬や妬みといった念を飛ばしまくる(要は、周りの足を引っ張るですね。杭の話で言えば、出る杭を打つ行動ですね)
3つ目は、いくつかのブログでも書きましたが、本当に厄介なものです。
なぜなら、妬みや嫉妬を持たれたほうとしては、完全に八つ当たりなのですから。
そして、投げつけられたこれらのネガティヴな念のために、原因不明の体調不良に陥ったり、仕事が上手くいかなくなったり、さんざんな目に会うのですから。
こういう目に会ったときには、きちんと対応してもらえる人を頼るのが早いと思います。
ただし、くれぐれも誰にお願いするかは厳選するべきだとは思いますが。
(変に宗教がかった人は止めましょう。力があればある人ほど、普通の人が多いです)
また、2つ目の感覚に関しては、本当に気を付けてください。
この自己消滅衝動は、本当に強力です。
自分のやりたいことができないことへの絶望にも近い感覚が、自分自身を襲うわけですから。
そんな大げさなと思われるかもしれませんが、でも、とても処理が厄介な感覚です。
できれば、仲のいい友人や恋人などと、これらの気持ちをシェアするのがいいですね。
ただ、ポイントは、貴方が思っている重さで、この気持ちを受け止めてくれる友人や恋人であることです。
で、ないと、この相談は逆ザヤになり、もっと深みにはまりますから。
また、もし、友人や恋人がいないというのであれば、メンターやコーチを生業としている人たちに相談するのもありだと思います。
ただし、この時、そのメンターやコーチが、相談をしに来た私たちの未来と能力に対して絶大の確信を持って相談に乗ってくれるかどうかということは重要ですが。
本物のメンターやコーチは瞬時に、相手の持つ能力を見極める力を持っているものです。
と、ちょっとわき道にそれましたが、いずれにしろ、自分自身のネガティヴな声にいかに抗うかということは、自分のやりたいことをものにする上で、とても大切です。
お前には、そんなことはできない。
ほら、見てみろ、お前は何もできていない…
時には、その声に耳を傾けてもいいもしれません。
なぜなら、確かに、自分がそのワールドの中でトップの実力を持っているか否かという客観的事実を把握することは、次のステップ(=努力)を踏むうえで重要な要素ですから。
ですが、この事実を受け入れるときに必要なのは、自分のネガティヴな心の声に負けないようにすることです。
とはいえ、やりたいことが目の前にあるのに、それができないことの苦しみは、本当にたまらないものです。
コーチングの祖であるルー・タイスが、とある陸上の選手が、いつも最後のコーナーで苦しくて苦しくて走れなくなるという相談を受けた時に言った言葉に有名な言葉があります。
「黙って走ったらどうなんだ? 君は走る必要はない。でも、走ることを選んだ。私になぜ走りたいのかを話した。それは君自身の考えだ。本当は無理して走る必要などないんだよ。レースを終える必要などないんだよ。いつだって止まることができるんだ」と。
そう、常に選択肢は私たちの手の中にあるのです。
どうしてもそれを手に入れたくて、手に入れたくて仕方がないのであれば、悲しくても、悔しくても諦めてはいけないのです。
なぜなら、止めることはいつでもできるのだらか。
勿論、目標にするものによっては、いくら、本人に能力があると言っても無理なことはあります。
例えば、50歳を過ぎて、100mを10秒切って走るといったようなことです。
確かに10代の頃、50mを6秒台で走ったことがあり、県大会で優勝したことがあったとしても、物理的事実というものに突き当たることはあります。(でも、今後の世界においては、身体をサイボーグ化して、50歳になっても、10秒を切ることはできるかもしれません。ただ、そういう世界においては、既に10秒を切って走ることは何の意味も持たなくなるのではないかと思いますが)
そういうときは、素直に周りの話を聞いて動くことも大切です。
でも、物理的制約がなく、もし自分の努力だけでなんとかすることができるのであれば、どうでしょう?
(最近は、時代が良くなって、モデルも以前は10代でデビューしなければ無理と言われていましたが、最近は、年齢がいってからも、その年齢の需要があれば、デビューできるような時代になりました)
後は、本人の努力次第です。
そう、確かに、私たちには能力があるのです。
ただ、その能力開発を先に始めた人たちに、必ず歩はあるのです。
ただ、それに負けないことです。
もし、後発であるならば、その時間を巻き戻すために、その人たちの倍以上の時間と努力を費やすしかないのです。
なぜなら、その人たちは、私たちが別のことに費やしてきた時間を、そのことに費やして、自分の中に蓄えてきたのですから。
とはいっても、今時点で、そのことを手に入れている人たちが羨ましく、そして、自分がその境地にまで行くことができるのかというネガティヴな思いが付きまといます。
そして、その思いが自分自身を否定し、自分自身の存在そのものをいたたまれなくさせます。
それが人です。
そして、この思いが屈折したときに、人は自分を消滅させるか、他者にそのネガティヴな思いを投げつけるかという行動に出ます。
(無視をするという方法については延べませんでしたが、私の中ではそれができる人が一番早く何かを達成することができるのではないかと思ったりしています)
でも、できれば、どちらもしたくないですよね?
それにしても、自分がやりたいことを手に入れるということは、ある意味、恋愛にも似ているかもしれません。
振り返ってもらえない切なさは、自分のやりたいことをやれないもどかしさや、自分の能力のなさを思い知らされるのと同じ感情のように思います。
そういう感情を持つことはダメではありません。ただ、その思いに流されてしまうのが問題なのだと思います。
なぜなら、それは、どちらの道も自分自身をダークサイドに陥れる招待状のようなものだからです。
(自己消滅はとても美しく聞こえますが、実際のところ、どちらも自分に負けたということには変わりなく、等価値であるように思います)
辛くても、今の現実を見つめ、土俵際で頑張りたいものです。
そして、できれば、これらの思いを自分自身の成長のために使いたいですね。

