いつの間にか頑張り過ぎてしまっている私たちって、不器用なんでしょうね… | スピリチュアル コンサルタント YoUMe(ユミ)の部屋

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心・身体・感性に同時にアプローチするYoUME Method/ユミメソッドを考案したスピリチュアル コンサルタント YoUMe(ユミ)こと、舟生侑未(ふにう ゆみ)の
人生観や生き方、物事の考え方などについてのブログです。

なんて書くと、ある年の人たちから怒られそうですが、でも、最近、思うんです。

全員が全員ではないけれど、気が付いたら頑張りすぎてしまっていて、にっちもさっちもいかない状態に陥っている人って、結構いるんじゃないかと。

 

最初は好きで始めたことだったはずなのに、だから頑張れたのに、なのに、いつの間にか頑張りすぎてしまって、しかも気が付いたときには、一体、何に対して頑張っていたのかが分からなくなってしまっていたりして…。

 

でも、なぜだかその頑張りを止めてしまうことができなくなってしまっていて…

自分がしていることを周りからも期待されてしまっていて…

でも、誰も私が自分のキャパシティ以上に頑張ってしまっていることに気付いてくれなくて…

 

頑張って、頑張って、頑張って…

どんどん何のために頑張っているのかわからなくなっていってしまって…

ある日、突然、心にぽっかり穴が開いたようになってしまっていて…。

 

このことを、甘ったるいとか、いうことは簡単なんです。

でも、それって解決になってないんです。

だって、それって、頑張りすぎて、自分を失ってしまっている私たちに引導を渡しているようなものですから。

何故って?

甘ったるいっていうことは、「お前、甘えてんじゃないの? もっと頑張れよ。甘ちゃん言うなよ…」って言われているのと同じことだから。

 

でも、頑張りすぎちゃう私たちは、うまく力を抜くことを知らなくて、全て正攻法で戦いを挑んで、身を挺して全てのことに対応しているんです。

身も心もズタズタ何です。

なのに、頑張って、頑張って、自分の身体とメンタルのキャパシティを無視して、メーターを振り切って頑張るんです。

 

そして、ある時、ふと、思うんです。

「私って、好きなことやってたんじゃなかったっけ…?」って。

そして、周りを見回した時に愕然とするのです。

「あぁ、あの人、好きでやってるだけだから放っておけば…」っていう声に…。

 

「あれ、私、この人たちの喜ぶ顔が見たくて、一生懸命やっていたんじゃなかったっけ? あれ、私、何のためにやってきたんだっけ…? あれ、好きでやってたような気がするけど、それってそうだっけ…」

 

どんどん、何かが空回りし始めて…

最後には自分自身がわからなくなって、気が付いた時には、世界が遠くなっていて…

そして、世界が希薄になるんです。

 

ちょっと前の世代までは、真面目に(←これ大事です)頑張れば報われる時代でした。

ただ、それが少しずつ、少しずつ変わってきて、以前と同じ努力をしても報われない時代が来てるような気がするのです。

 

「よっ、ありがとさん!」って言われて、あっという間に頑張った私たちから大切に作り上げてきたものがかっ攫(さら)われていくんです。

そんな中で、純粋に頑張っていると、本当に疲弊していくのです。

人を信じること、そして、頑張ることに…。

 

そんな私たちを不器用と一言で言うのは簡単ですが、でも、うまく言葉に表せないものの、そこに何か大切なものがあるように思えるから、そこに思いがあるから頑張るんです。

それって、自分に対しても、周りの人に対しても。

 

ただ、それを重いって感じる人もいて。

その人たちに別に負荷をかける気はないけれど、でも、不器用な私たちは自分たちを変えることができなくて。

でも、そのスタンスがある日、自分自身を壊してしまうもろ刃の刃になっていて…。

そんな姿を見るのは、とても切ないのです。

 

なぜなら、本来はそこまで自分を追い詰める必要はないのだから。

かく言う私も、ついこの前まで、気が対かないうちに頑張るネズミの輪に載っていて、危うく自分の命を失うところでした。

頑張って、頑張って、頑張って。

でも、頑張れば頑張るほど、人に忌み嫌われ…

ある日突然、もういいよねっていう思いに襲われて…

 

でも、人の縁って、本当に面白い。

今、私がこうやってブログを書いていられるのも、人の縁。

あの日、あの時、この人に会っていなければ。

そして、私のことをず~っとサポートしてくれる人がいなければ…

 

私はまだ、「生きたい!」と思えるところまでは戻ってきていないものの、それでも、私がこの数年、経験し、助けてもらったことを、今度は私が次の人に伝えたい。

 

そして、心から伝えたいのは、頑張りすぎて、もう本当にダメだと思ったときには、周りの人に甘えてみるのはありだということ。

もちろん、誰に甘えるかは選択しないと、もっと自分が傷ついて、本当にダメになってしまうかもしれないけれど、でも、頑張りすぎている私たちは、ちょっとだけ息を抜いたほうがいい、というよりは、息を抜いたところで、実は普通ぐらいになっているということを理解したほうがいいかもと、ちょっとだけ思います。

 

実は私もこの息を抜くのは大嫌い。

なんだか、自分が堕落したみたいで。

でも、今、必死になって全身全霊をかけてやっていることが、本当に自分の命を懸けてまでやりたいことなのか、ほんの少しだけ距離を空けてみて考えてみてもいいのかもと思うようになりました。

自分の命を懸けてもやりたいことなら、本当にやった方がいいと思うけれど、でも、大概はそれは自分自身の思い込み。

視野狭窄になっているだけのこと。

ただ、それを責めることはできなくて。

なぜなら、そうなってしまうということが身に染みて分かっているから。

不器用な私たち…

本当にそう思います。

 

そして、その行く先が命の代償だったりしたとしたら…

だからこそ、身体が先にブレーキをかけて、あの手この手で身体にブレーキをかけるべく、いろんな症状で訴えかけてくるのに、頑張りすぎる私たちはそれを無視してしまう。

だから、脳は自分の命を守ろうと必死で応戦してくる…。

 

「げ~っ、何、これ?!」って、自分の身体が自分の思った通りの反応をしてくれていないのは、脳が命を失わないように必死になって抵抗してくれている証。

本当はそのことに感謝しないといけないのに、私たちはその真逆の事をしてしまう…

頑張り過ぎる私たちは、そういった現象に対して「情けない私…」と更にネガティブな評価を下し、更に自分自身に対して負荷をかけようとしてしまう。

 

だけど、頑張りすぎる私たちも、本当は泣きたい時があるし、憤慨やるせない時もあるし、もう限界と思う時もあるし…

それが人間だっていうことを受け入れるべきないかなって思います。

そして、それは決して自分自身を甘やかすわけではないということも。

 

自分の心の声に耳を傾けること、弱さを受け入れること、そして、それを共有できること(もちろん、誰と共有するかは重要ですが)、それは自分がダメな人間だということではなく、それこそが人としての強さではないかと思ったりします。

 

過ぎたるは猶及ばざるが如し

昔の人はよく言ったものです…