酒井雄哉大阿闍梨【口伝】
❖阿闍梨の呟き13『完』
◆大事なのは弔い行事をすることではない
◇大事なのは弔い行事をすることではない
わしは、父親の死に目にも会ってないし、母親のときも、弟のときも会ってない。
出家して、行者になったということは、親兄弟が死んだって簡単には山から下りるわけにはいかないってことだからね。そういう覚悟で出家してるから、ある程度しょうがないことだとは思っていた。
そのうえ、自分が一緒に住んでいたうちのおじいさん、老師の最期にも会ってないんだな。
薄情すぎると思われるかもしれないけど、最期のときに会うとか、会わないとかってことに
あまり関心がないんだよ。命日が何日で、死んで何年経ったということも、たいして意味がないと思ってる。その相手のことを思って毎日回向することを続けることが本当は大事なんでしょうよ。
嫁さんが死んじゃってから五十年以上経っているんだけど、死んだ日をもう覚えていないんだよ。何年経ったのかも忘れている。
三年ぐらい前、田舎に用事があって帰ったんだ。そしたら、そこにいた坊さんが、「あんたの嫁さんが亡くなってからもう五十年になる。ちゃんと拝んでおきましたから」って言うから、「何を言ってんだ、この坊さんは。坊さんは拝むのが専門なんだから、いちいち自慢することでないわ」って言ってやりたかったが、心で思うだけにしといた(笑)。
こっちは、毎日、三昧堂の阿弥陀さまの前で拝んでいる。「何月何日が命日だから拝みます」とか、「没後何年の年忌法要で拝みます」とかいうんじゃなくて、毎日拝んでいる。だから命日なんか覚えちゃいないんだ。一年三百六十五日、毎日が命日のつもりでいるから、関係ないんだよ。
わしは箱崎老師の死に目にも会えなかったけど、毎日拝んでいるし、死んだ翌年から、命日には毎年欠かさず三昧堂で回向している。
ほかの人たちは「ああ、箱崎さんももう十七回忌ですか」とか「もう二十五年になりましたか」とか言うんだけど、わしは毎年やっているから、もう何年になるのかよくわからない。それでいいんだ、って自信を持っているんだよ。
そんな形式的なことはどうでもいいんだ。行事として、供養とか法要をすることが大切なんじゃない。さっきも言ったけど本当に大事なのは、その相手のことを忘れずに、ずっとずっと供養を続ける気持ち、そういう心のあり方が大切なんじゃないの。
朝、線香をつけて、「今日一日、無事に仕事ができますように」と手を合わせる。夕方、帰ってきたら、「今日も無事に帰ってきました」って線香を立てて、ご先祖さまに報告する。
「南無妙法蓮華経」とか「南無阿弥陀仏」とかの念仏を唱えたり、般若心経を唱えたりできる人はすればいい。できなくても、自分の言葉でいい。
いずれにしても、今日一日に感謝して、ご先祖さまにご挨拶のつもりでお線香を焚けば、それでいいんじゃないの。
毎日やっていれば、何月何日に法事やらなきゃ、と特別に考えなくていいと思うよ。中には、意見の食いちがう親戚がいろいろ言うかもしれないけど、そんなのも勝手なこだわりだよ。
毎日、手を合わせて、「今日も一日、元気で行ってきます」「今日も一日、護っていただき、ありがとうございました」っていうご挨拶する気持ちがあれば、それで十分なんだ。
それが、生かされていることへの感謝の気持ちなんだよ。念仏を知らなくても、お経が読めなくても、誰でもできるんだ。
ー完ー
この世に命を授かりもうして 酒井雄哉